葬式について
葬式に行きたいな、と思った。
不謹慎というか、そのようなことを考えたら死んでほしくない人が死ぬような気がして打ち消したくなるが、打ち消せる思考などほとんどない。それに、これは定期的に思うことだ。
葬式とは、私の中で思い出だ。父方母方双方の祖父母に兄弟が多かったからか、物心もつかない頃からいくつもの葬式に連れられて行った。
誰だかわからない人の葬式に何度も何度も連れて行かれるうちに、子供の私に葬式は「旅行のきっかけ」くらいのものになった。
高齢の親戚がいる限り、葬式は発生する。しかし、次第に私が大きくなって、また両親の親戚付き合いも簡素化され、葬式に行くのに私の意思が尊重されるようになった。
「行きたくなかったら行かなくてもいいよ」と言われて検討してみると、会ったことのない親戚の葬式に行く意味がわからず、そのぶん家で好きに過ごしていた方がよいと結論づけて、行きたくないわけではないが行かないことが多かった。
それから数年間を空け、顔を知っている親戚が死ぬようになった。
祖父。一度肉うどんを作ってくれた祖母の義弟。その葬式に行けば、当然に知っている人がおり、知っている人の遺影が飾られ、遺族が大往生だと自分達を慰めながら泣き笑いで故人を送り出している。知っている人が、煙になって、灰になって、壺になる。仏壇に。墓に。
葬式とは故人のために行うのではなく遺族の慰めである。その視点を持って見れば、葬式に行く意義とはよく知っている人が(生死問わず)その葬式にいるかどうか、という気がしてきた。
特に祖父が亡くなった時は私もその場で看取り、長年祖父を支えた祖母とその娘である私の母を見た。
祖母の意向で葬式はいわゆる家族葬のこじんまりとしたものになった。淡々と進められ、私は母と祖母ばかり見ていた。二人が心配だったし、いずれ自分が祖母や母を送り出す立場となるのだから見ておかなければと思った。
二人は私が見ている前ではほとんど泣かなかった。割合落ち込んでいる様子もなくて不思議に思ったものだ。
その数年後父方の祖父も死んで、飼っていた犬の1匹も死んだ。ハムスターも死んだ。ハムスターは人生の中で何匹も飼い何匹も見送ったのだけれど、人生の半分以上を一緒に過ごした犬が死んだのは大いに堪えた。また、ハムスターは庭に埋めておしまいだったが、犬はそうもいかない。初めてペット用の葬儀会社を利用して、初めて動物の葬式に参列した。焼かれている間敷地を歩いて、煙を探した。
どちらも父親を失った両親は、誰かの死をすぐに受け入れて生きているように見えた。犬の死も私より柔軟に受け入れた。何より傷ついている私を見て傷ついてくれた。あの幹線道路沿いのペット霊園で行われた葬式が不十分だったわけではないが、私の慰めにはならなかった。喪失感を受け入れるのに私は何か月もかかって、受け入れればその喪失感で打ちのめされた。
そして、この先の人生ではこういうことがもっとたくさん起こるのだなあとおそろしくなった。
祖母は双方健在だし、生き残っている祖父母の兄妹には今になって親しくしている人もいる。一度しか会ったことのない大叔父の兄妹だって、もし死んだら大叔父の妻(私の大叔母。時々たくさんのお菓子を持って姉である祖母の家に来る)が参列するから私も参列するだろう。私よりずっとたくさん親しい人の死を乗り越えてきた彼女にどうしても寄り添いたくなって。
いずれ、実家にいるもう一匹の犬が死に、両親も死ぬ。叔父叔母も死ぬ。私の幼少期を知る存在がいつかどこにもいなくなる。今離れている実家は幼い私の墓ともいえる存在で、帰る度に私は墓参りをしてほんの少し彼岸に渡ってその空気に飲まれそうになる。慌てて出て行く。きっと墓参りの間隔はどんどん開いて、犬の死に目にも両親の死に目にも会えないかもしれない。
その時私はまた葬式に参列する。先の犬と同じ霊園で。あるいは親を失った喪主として。犬の葬式は簡素も簡素だったが、人の葬式はそうもいかない。少なくともこれから二度親を亡くす。その後は通夜だの連絡だので慌ただしく過ごし、葬式中だって何かを常に気にして、参列者に挨拶回りなどして、小さくても仏壇を買って、その時住んでいる自分の家に置く。きっとその時ひとりになってやっと好きなだけ悲しめるだろう。
仏壇に飾られる写真は段々と増えていくだろうか。そこで線香を立てる時思い返す人は段々と増えるだろうか。葬式が思い出ではなく日常となってしまう遠い未来、私は喪失感をすぐに受け入れて寂しくとも泣き通す夜などはなく生きていけるだろうか。
参列しお焼香を上げる度に、私は「葬式」自体を受容していく。人の死に際した儀礼に慣れていく。知らない人の死から、知っている人の死へ、そして親しい人の死へ耐えるために。生きて残される寂しさを慰め合うために。自分が死んだときのことを悲嘆に呑まれず考えるために。
不幸がなければあと何十年も生きなければならないから、自分が死ぬまでにいくつ葬式に参列することになるか考えると途方に暮れる。行きたいなどと思っていない時にも人は死ぬ。そんな時でも多分、私は行きたくないとか行かなきゃよかったとは思えない。今まで通り幾度も葬式に参列していくことは、打たれ弱い私がなんとか生きていくため死者に力を借りることでもあるのだ。
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