或る男の小旅行

 箱根に、やってきた。

 ここのところ公私共に厄介な案件に追われていたので、ストレスが溜まりきっていた。その行き場の無いストレスは身体にも及び、正体不明の皮膚炎が数箇所に発生している。
 このままでは心身共に自壊しかねないので、ここは浮世の憂さを晴らすべく、一泊二日の一人旅を妻に願い出て、承認されたのだった。
 多額の土産を買って帰る、という交換条件がついたことは、言うまでもない。
 さぁ、どこへ行くか?
 私は脳内会議を開く。小さい私の集団が、総出で言いたい放題を始めた。
 温泉は必須、美味いものを飲み食いしたい、長距離移動は嫌だ、運転はしたくない…。
 呆れるほどわがままな自分に辟易しながら、見るとはなしに眺めていた動画に目が止まる。それはとあるVTuberのアーカイブ、過去配信動画だ。温泉に入り、酒を飲み、綺麗なものを見て、美味いものを食う。楽しげに話す彼女の言葉が耳に入る。

 ここだ、ここに私の望む全てがある。

 身元バレを恐れたのか、具体的な地名こそ名言しなかったが、話中の情景描写が場所を雄弁に語っていた。
 私はすぐさま旅行サイトを開き、宿泊先の選別を始めたのであった…。

 新宿から、小田急ロマンスカーで2時間弱。お気に入りの時代小説を読みながらウトウトしていればすぐに着く観光地、箱根。空は生憎の曇り空だが、気分は高揚している。何せ久方ぶりの自由時間だ。誰にも、何にも縛られない時間が始まる。こんな幸せなことはない。
 私は箱根湯本駅からバス乗り場へ向かい、目当ての行き先のバスに乗る。念のための折畳傘は新宿駅で仕入れた。短時間ならこれで何とかなるだろう。
 バスに揺られること数十分。最初の目的地へ到着する。森に囲まれた、瀟洒な建物が見えてくる。

 箱根ガラスの森美術館。
 ガラスをメインテーマに、様々な美術品や細工を展示する美術館で知られ、箱根はおろか、国内でも名の通った場所である。所蔵する年代物のヴェネチアングラスは歴史的にも美術価値も高く、また現代作家の作品も積極的に紹介している。
 私も過去、箱根を訪れた際に何度か足を運んだことがあるが、ここの見どころは展示品だけではない。美術館そのものがアートとして成立し、四季折々の風景を楽しませてくれるのだ。

 券売所を抜けて敷地に入ると、そこはもはや幻想の世界。眼下に広がる庭園にはそこかしこにガラス細工のオブジェが溶け込み、庭木や花と調和している。池にかかる橋には無数のガラスで作られたアーチが陽の光を浴びてキラキラと輝き、現実感を一瞬失わせる。
 そしてこの庭園を囲むように建てられた数々の洋風建築は、それぞれが個性を主張し、しかし喧嘩することなく建てられており、何処かヨーロッパの山奥にある集落のような佇まいだ。また、建物それぞれに展示、ショップ、レストラン、ワークルームが割り振られているので、好きなときに好きなブースへ移動できるのはありがたい。
 私は庭園を一回りし、季節の花に寄り添うガラス細工の花やオブジェを楽しみながら、遠くに見える大涌谷に目をやる。残念ながら今日は曇り…というか、雲の中に入り込んだかのような天候のため、山々の景色はうっすら見え隠れしている。初の来館でこの空模様だったら残念がったかもしれないが、過去にここで秋晴れの風景を見ている私の眼には、新鮮かつ神秘的な風景に映った。雲の中に浮かぶ箱庭のような美術館、風情がある。
 いや待て、日本人であるなら「雅」と表現するのも一興、かもしれない。

 驚くことに、此処の目玉はこれだけではない。敷地奥にあるカフェレストラン、ここが素晴らしい料理とお酒を提供してくれるのだ。
 それもそのはず、この美術館の母体は料亭・高級レストラングループ「うかい」。そのグループの料理人・シェフ・パティシエ達が考案したメニューを、弟子である調理人が作る、というものだ。他の美術館と比べてしまってはさすがに可哀想、というレベルである。
 時間はもうすぐ11時になる。今朝はロマンスカーでサンドイッチを食べただけなので空腹だ。となれば花より団子、とばかりに私はレストランに足を向けた。
 やはり私は、三大欲求に逆らえない生き物だ。

 レストランの入りは、まだ時間が早いこともあり、半分ほどの客席が埋まっていた。お客もコーヒーとお茶を楽しんでいる人がほとんどだ。内心で訝しむ私は、直後のウェイターのアナウンスで状況を理解した。何のことはない、ランチタイムが11時からだっただけのことだ。
 アナウンスを機に、店員がオーダー取りに忙しなく動き回る。私も手早く注文を済ませ、窓の外の景色に目をやった。
 レストランの窓は大涌谷方面に向かって開けている。今日は雲に覆われて見えないが、晴れていれば絶景が広がっていただろう。というより、この美術館そのものも雲の中にいるようなものだ。先ほどから濃霧のような雲がひっきりなしに通過していく。雲一つない青空もいいが、雲しかないという風景も非日常的で乙なものだ。珍しい風景を飽きずに眺めていると、オーダーしたビールとグリッシーニ、オリーブオイルを入れた小皿が運ばれてきた。
 不思議な景色に乾杯。
 私はビールを二口、喉に落とす。冷たさ、ほろ苦さ、ほのかな甘み、高揚感と背徳感。これらがないまぜになり、喉を通っていく。次にグリッシーニ、麦でできたスナック菓子をオリーブオイルに浸し、齧る。うむ、甘みの無いプ◯ッツだ。
 昼間、それもこんな早い時間にお酒を飲むことは、私の人生を振り返っても両手の指で足りるほどだ。際限なく飲まないようにする、というのもあるが、一番の理由は、私の外出は運転メインになるからである。今回はそういったこともないので、久々にお酒をオーダーしたが、やはり昼に飲む酒は格別だ。美味い。
 次に運ばれてきたのはパンと、ガラスのカップに入ったスープ。空腹に負けそうになるのを堪えてパンには手を出さず、スプーンを手にしてスープを口に運ぶ。
 コーンの冷製スープだ。甘さ、冷たさ、舌触り、全てが上品で美味しい。何より、コーン特有の甘さを嫌みやエグみを一切感じさせず、最大限に引き出している。私はカップから直に飲みたい衝動と闘いながらスープを飲み干す。テーブルマナーは極力守りたい。

 グリッシーニとグラスのビールが空くほんの少し前に、今日のメインディッシュが運ばれてきた。私はビールを飲み干し、追加オーダーをしておいた。この料理に、これを頼まない手は無い。
 うかい特撰牛のボロネーゼ。
 平打ちのパスタにラグーソースが絡み、チーズもたっぷりとかかっている。麺はフェットチーネ…いや、タリアテッレだ。おそらくボローニャ風に作られているのだろう。私はフォークでパスタを巻き取り、ソースに絡めて口に運んだ。
 美味い。ただの美味いじゃない、これまでに食したボロネーゼで最高峰の味わいだ。若干の混乱を頭に浮かべながらも、最高の気分で食べ進める。
 まず、ソースが絶品だ。ボロネーゼのソースには一般的に挽肉が使われることが多いが、これは本場ボローニャ風に牛肉が惜しげもなく使われている。そしてしっかり煮込むことで、ビーフシチューにも似た味わいになり、口に入れると肉の繊維がホロッと崩れる絶妙な柔らかさだ。これをモチモチ食感のタリアテッレに絡めて食べれば、その旨みはさらに膨らむ。たっぷりとかかるチーズは、最初は濃い風味が邪魔になるかと思ったが、煮込んだ牛肉に感じる僅かなパサつき感を補い、脂分と、肉とは別のコクをソースに追加してくれる。この計算された組み合わせが理解できたときの快感も、美味しさに拍車をかけてくれる。

 …と、脳内でどこぞの料理漫画のような解説をしながらパスタを食べる私のテーブルに、追加の飲み物である赤ワインが運ばれてきた。ちょうどいい、一度リセットしよう。
 グラスを手に取り、軽く香りを確認し、軽く口に含む。渋みと酸味、隠れた甘さをじっくりと味わい、飲み下す。パスタで重くなった舌と熱くなった脳がスッと軽くなる。
 肉系のパスタにはワインがよく合う。舌を洗い、サッパリさせるなら白ワインが最適だが、ここは洗い流すのではなく、パスタソースの旨味を受け止め、適度に受け流す赤ワインを選んだ。個人的にはこれが正解だと思っている。

 パスタ、ワイン、パスタ、ワイン…と進めていけば、いつか終わりが来てしまう。若干のソースを残して、パスタが皿からなくなってしまった。ここで先ほど手をつけなかったパンの出番だ。
 パスタの皿に千切ったパンを置き、ラグーソースをすくい取って口に運ぶ。このパンも、小麦とバターの香りがよく、ソースの強い風味をちゃんと受け止めてくれている。最後はまるでパスタ皿を磨くようにソースを拭い取り、口に運ぶ。
 意地汚い、だと?
 私はこのラグーソースを最後まで味わいたかったんだ。それに、ソースは料理人が丹精込めて作った芸術品だ。残さず食べるのは礼儀だろう。

※ソースをパンで拭って食べるのは意地汚いことでも、マナー違反でもありません。

 …もとい。
 私は最後のパンの一切れを口に運び、よく咀嚼した後に飲み込み、赤ワインの最後の一口を楽しんだ。
 とても、とても美味しかった。
 予定ではこの後にグリル料理をオーダーしたかったのだが、席待ちのお客がだいぶ増えてきたことと、夕食が比較的早い時間だったことを思い出したので、ここで切り上げることにした。
 なぁに、また次に来たときにオーダーすればいいんだ。

 会計を済ませてレストランを出ると、上手い具合に雨は止んでいた。このタイミングで展示を見て回ろう。
 今夜泊まるホテルはここから歩いて行けるし、チェックインまでは数時間ある。展示をのんびり見て回り、ついでにお土産も探してみよう。妻へのサプライズプレゼント、悪くない。

 その夜、推しのライブ配信を見た私は、近日中に再度ここを訪れることを心に誓ったのだが、それはまた、別のお話。

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