或る男の連休【晩酌もあるよ】

 連休である。
 私の職場はいわゆる盆休みが無いのだが、たまさか祝日と振替休日、そして勤務シフトの悪戯でポカンと休みができてしまった。ちなみに妻は仕事の関係で連休後に帰宅予定だ。
 これが普段なら、何処かに出かけるか遊びに行くかなのだが、こう暑くてはその気力も萎えてしまう。しかも盆休み前とあっては、行きたい場所は大混雑か休みかの二択になるのは必至だ。泊りがけ?我が家の小さな家族を、この炎天下で放置するなどあり得ない。
 ということで、この休みは1日だけ出かけるとして、その他は自宅警備と決め込むことにした。エアコンの効いた部屋で、推しの動画を見返しながらインコと戯れる、いいじゃないか。
 ちなみに出かける先はコミケである。推し仲間がブースを出しているからには応援したいし、10年以上ぶりに「夏」を感じるのは、悪くない。そう思って参戦を決めたのだった。

 コミケ出陣の翌日、私は昼過ぎまで寝ていた。正直、動く気力も無かった。
 昨夜は疲れからか、スマホを片手に寝落ちしてしまった。早朝にトイレとインコの餌やりに起きたとき、恐れていた脱水症状は無かったが、寝足りない感じだったので冷蔵庫の麦茶をガブ飲みし、二度寝してしまったのだ。
 アラフィフにとって、猛暑と強烈な夏の日差しの下、1時間以上の列待機は過酷過ぎた。鞄の中にあった折り畳み傘(箱根旅行から入れっぱなし)と、保冷バッグにしこたま放り込んだ保冷剤が無かったら、冗談抜きで台車に座らされたかもしれない。
 また、前夜に視聴者参加型の大喜利配信を視聴しながら脳味噌をフル回転させてしまい、深夜まで寝付けずに寝不足気味であったことも、スタミナ不足に拍車をかけたのだろう。
 ともあれ、会場では推し仲間の販売するグッズ(とコスプレイヤーさんのカード)をゲットし、ブースをひやかしながら気に入った本やグッズを買い、企業ブースへ向かう人波に恐れをなし、推し仲間と連絡を取り合って立ち話をし、屋内外のコスプレエリアで笑ったり目を逸らしたりするなど、長年ご無沙汰だった夏の祭典を大いに楽しんだ。

 その結果が、今の有り様である。

 たった数時間、炎天下にいただけで何を大げさな、と言われるかもしれないが、疲れるものは疲れるのだ。そして慣れない環境と人混みは、決して若くない私にとって、本当に厳しいものであった。ちゃんと事前準備と対策をして、これである。少しは身体を鍛えるべきか、少し悩んだ。 

 私は寝床から起き上がり、検温する。熱はない。身体の火照りや頭痛、腹痛などの自覚症状も無い。
 起床時のルーティンを行う。ゆっくりと身体を捻り、指先まで動かす。おかしな動きや変な痛みは無い。若干、ふくらはぎに張りがあるが、それは昨日の数時間立ちっぱなしのせいだろう。あとで軽くほぐしておけばいい。
 よし、気怠さを無視すれば動ける。私は寝床を離れ、洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。湯船に張ってあったお湯だったものに浸かり、しばしの水風呂を楽しむ。
 1日の大半を寝て過ごしたことに後悔は無い。だがこのままゴロゴロするのも勿体ない。何か有意義な事をして、今日という日の帳尻を合わせたい。身体が冷えていくにつれ、昨日の暑さにやられかけた頭が少しずつ回転し始める。

 飲みたい。旬のものをつまみながら、よく冷えた日本酒をキュッ、と。

 「エウレカ(これだ)」
 風呂場に、誰にも向けていない声が響いた。私は湯船から上がり、栓を抜きながら頭と身体を洗う。空になった湯船をさっと洗い、シャワーで流す。手早く身体を拭き、冷蔵庫の中身をチェックする。足りないものをスマホにメモしながらシャツを身に着け、短パンに小銭入れと車のキーを押し込む。冷凍庫を開け、数秒ほど冷気を楽しんだ後、豚モモ肉のスライスを取り出して冷蔵庫に移す。ついでに日本酒の冷え具合を確認し、徳利を一本冷蔵庫へ放り込んだ。
 さあ、買い出しに行こう。

 夕方、蜩の鳴き声が聞こえるタイミングで、私はダイニングテーブルに調理したものを並べる。
 豚の冷しゃぶ、鱧の湯引き、冷奴、枝豆、ミョウガの一夜漬けが並んだ。
 まずはビールだ。私は冷凍庫からタンブラーを取り出し、良く冷えた金麦を注ぐ。
 「いただきます」
 と小声で言った後、グラスを呷り、飲み干す。冷たさとほろ苦さ、そして飲み口の軽さにいささかの違和感を覚えつつ、むしろこの軽さが夏向きかもな、と思い直す。
 ここ数ヶ月、私は贔屓のサッカークラブが直近の試合で勝てなかったときはビールを断ち、次に勝つまでは発泡酒で我慢する、という願掛けを行っている。当初は発泡酒の独特な風味に戸惑ったが、飲み方次第で美味しく飲めることが分かってからは苦にならなくなった。もっとも、これに慣れてはいけない、という若干の矛盾を抱えながらではあるが。
 二杯目の金麦を飲みながら枝豆を手に取る。近所の野菜直売所で仕入れた枝付きのものを大鍋に放り込み、茹でたものだ。熱いうちに枝から切り離し、粗塩を振ってよく揉み込んだだけに、馴染むと塩気が効いて、豆本来の甘さが際立つ。野菜は新鮮さに勝るものなし、といったところだ。美味い。
 続いて冷奴だ。豆腐はスーパーで買った普通の絹豆腐だが、薬味を少しアレンジしてみた。豆腐を半分に割り、片方に海苔の佃煮、もう一方におろし生姜とミョウガの千切りを乗せて醤油をかける。海苔の風味と、生姜とミョウガの爽やかな風味が楽しめ、どちらも最後に豆腐の優しい味が残る。美味しい。
 金麦で流したら箸休め、ミョウガの一夜漬けだ。シャクシャクした食感と米酢の酸味、刻んだ紫蘇の香りが、他のものに邪魔をせず、でもちゃんと自己主張している。こういう一品があるかないかで、食卓はガラリと変わるものだ。

 さて、金麦が空いてしまったので日本酒の登場だ。今夜は地元、千葉県の銘酒「五人娘」純米生酒をいただこう。
 良く冷えたお酒を、同じく冷蔵庫で冷やしてあった徳利に注ぎ、酒杯を満たす。ほのかに琥珀色をした液体で満たされた盃を口元に運び、スッと飲み干す。ため息を一つ。
 「うまい」
 上品な香りから、口に含むとわずかな炭酸の刺激、続いて控えめな甘さが来て、後味はすっきり。
 ここの酒造は基本的にろ過をせずに出荷する。そのため、火入れをしない生酒はじわじわと発酵が進む。まるで微炭酸のような淡い刺激を味わえるこのお酒は、夏にピッタリの一本だ。普段はあまり日本酒を嗜まない私だが、何かにつけて買いつけ、ストックしている。
 何より名前が良い。五人娘、まるで推しの所属するユニットみたいだ。今度Xでポストしてみよう。お酒好きな彼女のことだ、ひょっとしたら目に止まるかもしれない。

 ここで鱧の湯引きに箸をつける。オーソドックスなのは梅肉のタレだが、私は塩、それも藻塩でいただくのが好きだ。しっかり骨切りされた鱧を一口、じっくり噛んで飲み込んだらそこにお酒を流し込む。鼻に抜ける吐息に、鱧の風味と日本酒の香気が混じる。
 これだよこれ、これぞ夏だよ。
 この組み合わせは、私をそんな気分にさせてくれる。やはり旬のものに勝る味わいはない。

 ここでふと思いつき、昨日の戦利品をテーブルに並べてみる。御朱印、チェキ風トレカ、そしてアクリルキーホルダーの3つを眺めながら、昨日を振り返る。暑く、過酷な1日だったが、こうして思い入れのある品を見ながら晩酌すると、辛かった記憶すらも楽しめるのだから不思議なものだ。
 他の戦利品は、だと?置いてない時点で察しろ。

 そうして飲み食いしていけば、あらかた食べ物は片付くものだ。私はメインにとっておいた冷しゃぶの皿を手元に引き寄せ、ごまドレッシングをかける。軽く混ぜた後、肉とプチトマトとスライスオニオンをレタスに包んでかぶりつく。美味しい。
 さっと茹で、氷水で締めた豚モモ肉、トマトの酸味とタマネギの辛味、ごまドレッシングの柔らかい味わいにシャキシャキのレタスが加われば、爽やかな食感にしっかりした食べ応えも追加される。私の夏料理の定番だ。冷たい麺類に逃げたくなると、よくこれを作る。
 冷しゃぶを残り少ない日本酒で楽しみながら、明日の墓参りのことを考える。暑くなる前に掃除をして、できれば親戚が来る前に退散したい。苦手な人たちではないが、直射日光と墓石の照り返しで蒸し風呂状態になる、そんな場所で長話されたらたまったものではない。
 「まぁ、向こうも長くは引き止めない、かな」
 誰となしに呟くと、冷しゃぶを口に放り込み、よく噛んで飲み下す。五人娘の最後の一杯を口に含み、名残惜しげに飲み込むと、ため息を一つ。
 「ごちそうさまでした」

 少し酔ったので、洗い物は水に漬けておくだけにして、明日に回すことにした。酒器をぞんざいに扱って割りでもしたら目も当てられない。
 心地よい酔いを感じながら、ソファに横になる。ここで窓から夜風の一つでも入れば完璧な夏の夜だが、生憎の熱帯夜のためエアコンをかけている。
 まあ、過ごしやすいならそれでもいいか。
 私はタブレットを起動し、推しの配信動画アーカイブをセットする。あまりに長時間過ぎて敬遠していたものだ。昼間に寝すぎた分、多少夜更かししても帳尻は合うはずだ。

 楽しい夏の1日と、美味しい晩酌。良い連休だった。

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