19 多様性と分断

「多様性と分断」ということを考える。 
多様性というものが、もっとゆるやかでおだやかなものであってほしいものだが 、美と同様にそれは「芋くってからだ。」ということになろうか

 
対極が存在するから声高に私はこうであると言わなければならないのか、 
自由は多様性を担保するフィールドを形成する重要な要素だが、イモ食えなんだら自由はないのか?
自由はひとりひとりの態度なのか、社会に保証されなければ存在し得ないものだろうか
多様性が保証される中で、私はこうでしたというのは本当の心の自由なのだろうか
では抑圧された個は私は何者であるか気づかぬまま死んでいったというのだろうか
対極により、自由なふりしてかたくなに個を際立たせるしかないとしたら、それはある意味抑圧ではないか ?


わたしでない他人に恐怖を持ちすぎていて、他者により初めて成り立つアイデンティティの縛りを感じながら、私はこういう人間であると表明しなければならないワナにはまってやしないか
我々が何者かであるという必然からの自由は永遠に手に入れられることはないのか ?


多様性は分類から自由になれるか、汎用的な基準を用いて物事を分類していくことは科学的態度であり、最終的に何者か自己規定できない場合は、他者との差異から自己を推し量るしかなく、 
脳は恐ろしいスピードで判断するし、アリストテレスは事物を分類することで自然科学をひとつ上のステージにあげた。 
分類と分断は段階の差でしかないのか


他者によってしか存在しえない自己を弱いと断ずるのは厳しい、誰しもそこからは逃れられず、であればカウンターとしての性格形成が行われ、且つその性格が差別を断ずる、もしくは行使する。
できることは少ない、謙虚さを忘れずにいる事ぐらいか 

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