87 別れた彼女(彼氏)の写真捨てるか否か

好きな人の写真を捨てようか迷っている。

あ、架空の話ね、思い出は捨てた方が先に進めるし、
忘れる能力は人間が手に入れた特別な才能だし、
本来の人間の在り方に近いだろう(あくまで経験論的解釈)

捨てない人は執着というよりは、過去をコレクションのように考えている傾向があるような気がする。若い人ほどその傾向が強いように感じる(若者差別!?ごめんちゃい)
現在の自分を切り取り切り取り過去に蓄積していく
記憶装置を外部化(スマフォ、クラウド)し大量の過去をデータ劣化なく蓄積できることで、蓄積されていいくものとしての人格、人生という考え方に依拠するようになる。気がする。

本来、その人固有の脳内の記憶こそが人格形成の大半、あるいはそのものであったが、
変化しない過去データは、あいまいで可塑性のある脳内メモリーと比較し
前者は目的が過去にフォーカスされ、後者は未来的だ
これは前者が成長を指向しないということではない、よりよい過去を収集するために未来をよりよいものにしようとする。

ライフログをやるかどうかは意見は割れるだろう、できればストレージに保存する過去は取捨選択したいからね、高校デビューした人のスマフォのアルバムはまるで高校以前は生存していなかったかのようではないか?
今は見せたいものを見せるSNSがちょうどよいか
社会学者がいうように、資本主義では他者の欲望を自らの欲望として消費活動をおこなってきたが、(他人が欲しいものを購入する)
もう少し個人に揺り戻しがあるかもしれない、蓄積したい過去目線での欲望と考えれば、だけど
うーん、でもそれも他者目線にはかわりないか、食事や旅行など経験を消費するようになったのは他人がうらやむ人生であるかどうか、という尺度がモノではなくコトになったのだろう、
現在ではブランドものの高級ブランドのカバンをSNSにアップすれば炎上するかもしれない、変わらず他者目線であるが、うらやむベクトルは変化しているのかもしれない。

も一つ気になった。振り返る過去をビルドする傾向は階級を固定化する方向に作用するかもしれない
塗り替えられない過去、大量の過去のデータ化は変われない個人という固定観念をつくりあげる危険性も感じる

で、冒頭の好きな人の写真だが
過去のデータ化が死を受け入れがたいものにしていないかという問いです
写真の発明から、その人の面影は記憶を常に補完するものとして
仏壇の、アルバムの、居間の家族写真で記憶を常にアップロードできる
さらに音声、動画まであったら
もっといえば膨大な会話データでもあればAIで疑似故人まで可能。
これいいことか?
死がどんどんあいまいになり受け入れがたくなることはないのか?

って、これが言いたかった、遠回りしすぎ

ちなみに私は全部捨てる派です

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