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富永一朗の貸本時代

 富永一朗は昭和26年(1951)に上京し、帝国興信所で働きながら投稿生活を続けていたいっぽうで、子供向けの貸本漫画を描いていました。富永の「わがポンコツ人生航路」によれば、それは三年ほど続き、A5版96頁で25000円という破格の待遇であったようです。

 その中の一冊と思われるのが、『北風小僧』(きんらん社、昭和31年)です。表紙に「近藤圭子の歌」とか「まんが物語」と記されているように、これは「歌と映画のまんが物語」というシリーズの一冊で、A5版100頁、定価150円でした。他にも、例えば、美空ひばりの『父恋し母恋し』、雪村いづみの『小さな靴屋さん』、安田祥子の『あの子にこの子』、浅丘ルリ子の『港の花売り娘』なんていうのがあって、なかなかいいのです。謡曲や童謡のタイアップ企画といったところでしょうか。

 近藤圭子は昭和18年(1943)生まれの童謡歌手。八頭身美人と言われ、童謡歌手の中でもルックスに注目された人で、後に妻子ある男性との心中未遂事件により、昭和40年(1965)芸能界を引退しています。ちなみにこの「北風小僧」は、「北風こぞう」というタイトルで、キング・レコードからレコードが出ているようです。

 さて、漫画の『北風小僧』は9章立ての物語。もうすぐ春を迎えようとする寒い時期に、主人公の少年が風にさらわれた帽子を取ってくれたおじさんと出会います。おじさんは、お話の中だけにいるはずの「北風小僧」が実際にいて、今日がその子の死んだ日なのだと不思議なことを言い、少年らを家に連れて行きます。

 おじさんは、麓夕作(ふもとゆうさく)という童話作家で、子供たちも彼の「山彦の谷」とか「野いちごの歌」などを知っていて、親しみを持ちます。おじさんは、童話を書くきっかけになった「北風小僧」の死とその短い一生について語り始めるのですが……。

 話は終戦直後にさかのぼります。おじさんは、当時、九州のある山村の化学工場に勤めていました。おじさんには、文江(ふみえ)という一人娘がいて、母親は死んでいて、すでにこの世にはいません。

 ある寒い夜、親子は、畑を荒らしている男の子の影を見かけます。村では、近頃頻繁に起こる畑荒らしが評判になっていました。その男の子はすごいスピードで逃げ去って行くので村では「北風小僧」と呼ばれ、噂されるようになるのです。文江は、やがて「北風小僧」が傾山(かたむきやま)に住んでいる孤児であることを知り、鷄小屋に忍び込んだところを捕まってしまった「北風小僧」を助けます。その真一という孤児は親子といっしょに住み、文江といっしょに学校へ通うことになるのでした。

 仲良く暮らす三人でしたが、やがて真一は自分の存在が親子の迷惑になっていると思い込み、出奔してしまいます。それから一年後、村に舞い戻って来た真一でしたが、ちょうどその日、文江が登った傾山が火事になり、真一は文江を救ったものの、自分は倒木の下敷きになって死んでしまうのでした。おじさんから「北風小僧」の話を聞いた子供たちは、帰り道に、学校の先生になっているという文江を見かけて帰っていきます。

『北風小僧』p.94。北風小僧・真一死す。急な展開ながら涙の物語。

 このような物語の内容はともかく、おもしろいのは、その絵です。少年の頃に田河水泡や岡本一平をまねて漫画を描いていたので、彼らの影響もみられるような気がするのですが、ここに後の『ポンコツおやじ』などのキャラクターの原型と思われる人が出て来たり、ところどころに七五調の、つまり富永得意のリズム感のあるセリフも出て来たりするのが、とても興味深いところです。おそらくこの駐在のような、子供向け貸本漫画の脇役から、ポンコツおやじなどが生まれてきたのでしょうね。

『北風小僧』p.24。左・駐在の飛び上がり方!

『北風小僧』p.38。子供が七五調で別れを言う。

『北風小僧』p.64。これがもともと近藤圭子が歌っていた「北風こぞう」の詞なのかもしれません。

 富永は漫画とともに、流行歌も大好きな人でした。一日家にいると30曲くらいは一人で歌っているというほどで、富永のセリフの源泉がそこにあります。『一朗歌ごよみ』(ミック出版社、1989年)という本も著していて、そこでは有名な懐メロからマニアックなものまで、いかに富永が幼い頃から歌謡曲に馴染んできたのかが、きわめて饒舌に語られています。この漫画にも、子供が七五調のセリフを言って父親に「流行歌みたいなこというんじゃねぇ」と言われて、籠に入れて連れて行かれるコマなど、もうこれは後の富永漫画です。こうした子供向けの貸本漫画の中に、富永のキャラクターの原型を見てみまうと、思わず嬉しくなってしまうのでした。他にどれくらいこの種の漫画を描いていたのか、現在調査中です。

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