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富永一朗『ゴンサン』:一朗ナンセンス漫画の出発

 子供の頃、日本テレビ系列で放送していた「お笑いマンガ道場」。最初の一年間は四代目桂米丸さんが司会だったようですが、僕が見ていた頃の司会は垂れ目も愛らしくテキパキと番組を進行していく柏村武昭さんでした。

 そして、平成元年に小学生になった僕の心を揺さぶったのが、富永一朗先生でした!!!

 まだテレビアニメ以外の漫画を知らなかった僕が最初に見たのが、富永先生が即興的に描くユーモラスでドライな〈チュー〉や〈おっぱい〉だったのです。本人の愛嬌のある顔や体型も気に入って、幼い僕は富永先生のファンになり、仇役の鈴木義司先生が土管に入れられている姿や、毛虫やアホウドリになった姿を描いた漫画を富永先生と一緒に楽しんでいたのです。僕の漫画と触れ合った原点は富永先生でした。小学校二年生の時に「週刊少年ジャンプ」で井上雄彦「SLAM DUNK」の連載が始まり、マンガ好きの友達はそういうのを読んでいたみたいですが、僕はすでに富永ファンだったので、少年マンガのスピード感やストーリー性、その感動に魅かれることはなかったのでした。すでに富永一朗のスピード感、軽快なリズムに魅せられてしまっていたということでしょう。「感動」を鬱陶しく感じ、ナンセンスを愛する孤独な少年だったのです。

 富永一朗の半生は、『現代漫画・富永一朗集』(筑摩書房、1971)に「わがポンコツ人生航路」と題して略述されています。


 富永一朗は、大正14年(1925)京都生まれ。大分県佐伯市出身の父は京都の大丸デパートに勤務していたそうです。その父を三歳で亡くし、母の郷里である福島県田島町に移り、五歳の時に今度は父の郷里に移るという苦労を経験しています。漫画は小学校四年生頃から書き始め、当初は田河水泡のまねをしていたそうで、ちょうど田河の「のらくろ」時代でしたが、それよりも「凸凹黒兵衛」や「蛸の八ちゃん」がお気に入り。「のらくろ」以前の「漫画の罐詰」の人間の描き方に感動し、まねをしていたそうです。この後富永少年の人生には意外な展開に起こります。中学校一年生の時、母が恋愛事件を起こして出奔してしまったのです。そのため祖母に育てられました。この頃には岡本一平の『一平全集』を写したそうで、ようやく大人漫画のよさがわかってきた一朗少年でした。当時はいきなり墨で描いていたといいます。鉛筆で下描きをしてからペン入れすることを知らなかったからです。中学時代は成績優秀だったが経済的な理由もあって大学には進学せず、台湾の台南師範学校に入学、高射砲二等兵として軍隊生活も送りました。


 そして敗戦。学校を卒業し、短い間教員生活をした後、昭和21年(1946)に引き揚げ帰国を果たします。まずは父の故郷の大分でタドン工場勤務、小学校教師をしています。富永も漫画好きですが、弟のほうが先んじていたようで、すでに大分漫画集団という団体に加入していました。富永はその団体の展覧会に出品したりして、やるせない大分時代を過ごします。


 昭和26年(1951)、一念発起して上京、帝国興信所の臨時雇いとして働き、会社年鑑の作成をしながら、漫画を描くようになります。漫画投稿時代の始まりです。投稿時代の成績はよかったようで、『サンデー毎日』『キング』などの投稿漫画欄に多くの漫画が掲載されています。

 『キング』昭和28年7月号「漫画天国」欄。

 『キング』昭和28年9月号「漫画天国」欄。

 そして、帝国興信所の向かいにあったのが、『モダン日本』を出していた新太陽社で、ちょうど会社が潰れる寸前でした。その編集部に勤務していたのが吉行淳之介で、持ち込まれた富永の漫画を見て、吉行はその才能を見出します。会社が潰れることが決まったばかりのこの日、吉行は疲れ、意気消沈していました。漫画を持ち込んできたこの青年に言葉をかけたり事情を説明したりする気力もありません。吉行の態度は富永には無表情で冷ややかに映ったようですが、後年、二人は会う機会があり、最初の出会いについて話しています(吉行淳之介「まえがき」『一朗魔女抄』)。疲れてはいたものの、吉行は富永の漫画を見て、立ったままゲラゲラ笑ったといいます。疲れていたからこそ、とも言えるでしょうか。富永の漫画の特徴を示すエピソードかもしれません。これが富永に自信を与えました。この時吉行に渡した原稿は、吉行自身が三世社に移ってしまうので掲載はなかったはずですが、三世社から発行されていた『講談読切倶楽部』という雑誌に掲載されることになります。


 その後、30 本以上描いたという貸本漫画時代(この頃に母方の従姉と結婚)を経て、昭和31年(1956)1月に編集者の紹介で杉浦幸雄を訪問します。杉浦邸での新年会で、最初は「玄関払いされてはプライドが許さない、行かない、とごねた。」と断りかけるのですが、夫人の勧めで行くことになったそうです(寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』)。この時、富永が見せた漫画を見て、杉浦は彼の才能を認めたとされ、それが「ゴンサン」らしいのです。杉浦はその場で「サンデー毎日」の峯島正行宛に紹介状を書いてくれました。富永にとって転機でした。最初は大人向けのナンセンスな一枚ものでしたが、昭和35年(1960)、峯島から4ページの連載の話を持ち掛けられ、始まったのが「ポンコツおやじ」です。ほぼ同時期に「アサヒ芸能」に「チンコロ姐ちゃん」、「週刊明星」に「せっかちネエヤ」も始まって、人気を得て大活躍をしていくことになるのでした。

 今回はその思い出の富永一朗先生の人生を変えた連載4コマ漫画を集めた『ゴンサン』。函入。昭和35年(1960)に発行された富永にとって貸本漫画を除けば最初の単行本ですが、非売品、私家版です。富永本人によれば200部作ったようです。僕の持っているのも贈呈本で、富永の挨拶状が挟まれています。こみあげてくる嬉しさを表現しつつも謙虚な文面が綴られていて、富永の誠実で無邪気な人柄を感じさせます。

『ゴンサン』の函(表)。

『ゴンサン』表紙(表)。

 『ゴンサン』挨拶状。「なんだこんなもの」というのも、富永の漫画に出てくるセリフのように思えて、微笑ましいのです。

 『せっかちネエヤ』『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』などの他に富永は数多くの私家版の漫画集(ヒトコマ漫画)を出していて、そちらは現在では古書価の高い本がほとんど。『現代漫画・富永一朗集』(筑摩書房、昭和46年)が全体を知るには一番良いかもしれません。富永ほどの漫画家の代表作が復刻されないのは残念な気もします。熱心なファンは数多くいると思うのですが、そういう人はひそかに先生の作品を集めて大切にしているのでしょう。

 『ゴンサン』には杉浦幸雄が序文を寄せていて、「鬼才現わる!漫画界待望の鬼才がついに現われました。」と賛辞を述べています。杉浦は富永の唯一の師匠、うれしかったことでしょう。「ゴンサン」は4コマ漫画。主人公はゴンサンという独身の中年男性(今からするともう少し若く見えるけど)。富永自身の性質をモデルにしたものらしく、彼の分身でもあり、友でもあるキャラクターといったところ。いつも黒いTシャツを着ていて、胸に「G」というロゴがプリントされています。これは読売ジャイアンツを示しているのでしょうか。富永は熱烈な広島東洋カープのファンとして知られていて、応援歌「ゴーゴーカープ」「カープ音頭」を吹き込んだほどですが、「ダメおやじ」の象徴であるゴンサンに「G」のロゴを結び付けることで、ジャイアンツに対する闘争心を表したのでしょう(本当のところは知りません、推測、こじつけです)。

 ゴンサンは本当にダメな人で、おそらく無職なのですが(たまにセールス、というか、押し売りをしています……)、であるからこそ町内の人々に妙に頼りにされる存在。子守をしたり、外科医院に頼まれてバナナの皮で通行人を転ばせて患者を増やしたり、女スリと付き合って鞄を盗まれたり、永井荷風に扮して女の下着姿を鑑賞したり、お尻丸出しで相撲を取ったり、とにかく人が好いのです。これは後の『ポンコツおやじ』もそうで、主人公はいろいろな騒ぎを巻き起こしたり巻き込まれたりするけれども、「悪」とは無縁。富永の4コマ漫画は、こういう「ダメな善意の人」が巻き起こすドタバタであり笑いです。『ゴンサン』はシンプルな線で描かれた人物や建物が妙な安心感を抱かせますし、コマ運びも軽快ですし、全体に白い画なので、眼も心も疲れません。ゴンサンみたいな人が近所にいて、一緒にくだらない失敗ができたら一日一日が楽しいだろうなと思わせるようなキャラクターなのです。「スピード・スリル・リズム」が本人が広言する富永漫画の原則、『ゴンサン』にもその哲学は流れているようです。

 『ゴンサン』p.5。

 『ゴンサン』p.15。

 『ゴンサン』p.78。

 『ゴンサン』p.29。後の『せっかちネエヤ』にも同じようなオチが出て来ます

 『せっかちネエヤ』p.123。

 『ゴンサン』は、人物の走り方、放り出され方、怒り方、飛び上がり方、驚き方など、後年のユーモラスなあの画で描かれています。でも、まだまだあの突飛な運動が出てきません。そして、富永特有の「おっぱい」が出てきません。恋わずらいをしたゴンサンが、人に勧められて胸の病によく効くお灸を据えてもらう話のオチで、「おっぱい」の形をしたお灸をお婆さんに据えられるという場面に、唯一後年の「おっぱい」の面影がある程度です。それから、これも後年の特徴である独特な「七・五調」のセリフもまだ出てきません。とても普通。だから、『ゴンサン』の笑いにも、富永のクセのある味が強くは出ていないのです。初期の代表作として、これはこれでそれなりに貴重な一冊、忘れないでほしいなとは思いますが、ここから「ポンコツおやじ」に進んでいかなければ、彼の漫画の本領はわかりません。「おっぱい」の出てこない『ゴンサン』を読めば、あなたも富永の描くドライな「おっぱい」がもっと恋しくなるでしょう。いま、僕も痛烈に「おっぱい」が恋しいのです。いや、そう、富永一朗のオピンクムードが恋しいのでした。

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