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ないものねだりの時間。
ないものねだりは楽しい。あれやこれや、今現在、所有していないものをひとつふたつと抽出していくと、挽いた豆の夢が広がって、満ちていく芳醇が乾いた心を潤わせていく。ドリップから滴るように、ねだるものが粛々と、白紙フィルターを通じてまたひとしずく、見えてくる。
ないものをねだる行為は、至福の薫香が弦楽器の旋律のように、揺らぎながらも手を取りながら、耳に優しく気品に満ちて、そして気高く、ときに激しく、つらつらと空想空間を満たしていく。
ただ、ひとつひとつの香りはそれぞれ命が短くて、そう長くは続かない。香りは五感の綿菓子、綿菓子が口に含むと消えていくように、芳香は鼻腔に含むとたちまち幸福感に分解されて、身を焦がしながら消えていく。
そしてまた、至福の薫香時間もまた、そう長くは続かない。空腹でかぶりつくハンバーガーが満腹と引き換えにたちまち消えてしまうように、渇望のないものねだりは、まだ入手できていないというのに、幻想に現れては最初からなかったかのように消えていく。
ないものねだりを探求しつづけていると、欲望の頂点を境に速度が急速に落ち込んで、ごくごくたまに熱波に襲われ爆ぜゆく栗が石炭ストーブから逃げ出すように「欲しい」の情熱感極まってお店に飛んで向かうことはあるけれど、そうした衝動は稀な気まぐれで、だいたいはピークを過ぎれば平熱に戻っていく。
ないものねだりを続けても、しばらくすると空まわりの欲望に飽きてくる。欲しいものがそんなにたくさんあるわけでないことが関係しているのかもしれない。それに、ないものねだりは、多忙のピーク時によく現れる。忙しいからよそ見の余地などないはずなのに、机に向かうと飼い猫の手がキーボードに伸びてくるように、ないものねだりは隙間のない多忙の表層から滲み出て、多忙を邪魔しに手を伸ばしてくる。
もちろん、忙しい時に限って現れるわけではないけれど、もとから羨むタチではないせいか、テレビやネットで煽られたくらいですぐさま「欲しい」とはならない。そのあたりは直情型と違って、ブレーキを踏んだまま静止しているタイプなもので、その性質が功を奏しているといえるかもしれない。
では、ないものねだりは自分にとって何ものなのか?
考えてみた。
で、答えらしきものが香りのように、つかみどころなく茫と見えてきて。
きっとそれは、窮鼠が猫を噛もうとするようなものだというところにたどり着く。実際に猫に向かっていくのはリスキーだからしないけど、追い詰められた者の錯乱らしきものなのだ、きっと。
もし仮に、ないものをねだれる時間を与える人がいたならば(人でなくてもいいのだけれど)、そしてその人が(人でなくてもいいのだけれど)ないものねだりの時間をくれたとしても、困ってしまうだろうな、と考えた。ないものねだりの時間は、追い詰められて猫を噛もうとしなければならないのに、追い詰める猫がいないのでは心の動かしようがないからだ。
ないものねだりは楽しい。白紙からいろんなものが出てきそうな予感に満ちている。多忙が、そんな幸せ時間を紡いでる。
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