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 人見知りな私でも挨拶以上の会話を交わせるようになったこの街を去ることに躊躇いはあった。これまでをかなぐり捨ててこれからの島の暮らしは私を一から出直させる。戸惑いの「こんにちは」から始まって、表層から少し肌に染み入るような「熱い日差しが堪えますね」を連呼し取り入って、「このごろ顔色が優れないけどどうかされました?」まで踏み入るのに、さてどれだけの歳月を要することやら。気が滅入らせる心配の種でもあったが、同時に新しくかける離島へのはしけでもある。
 積み上げた積み木を更地に戻し、新たな積み木を積み上げようとする覚悟への道のりは平坦ではなかった。使い慣れた道具の、手に馴染んだはずの手触りを捨て去るのは並大抵のことではない。手放すのが口惜しかった。
 だがそんな暮らしの基礎にあったはずのものが、いとも容易くあの出来事がさらっていった。あたかも神隠しのように迅速で不意をつかれた。引き戻す手を伸ばす間もなかった。想定外の土石流が押し寄せて、気がつけばそこにあった命を丸ごと呑み込んでいた。

 島の暮らしは、障子に目もあれば壁には島民の耳という耳が押し付けられている。家に閉じこもっていようとも、すべてが透かし彫りの鳥籠だ。洗濯物を干せば「恥ずかしげもなく色香のブラジャーやショーツを見せつけてるよ」と舌打ちされ、島唯一の輸入食材屋でドライトマトを買えば「きっとほれ、ゴーギャンなんだよ」と陰口を叩かれる。ゴーギャンは間違いでビーガンと言いたいのだろうけど、伝言ゲームで伝わってくる他人の発する語彙の間違い探しに乗り気になるほどおめでたくはできていない。
 菜食主義者ではない。肉も食らえば魚もいただく。決してビーガンなんぞではない。
 それにドライトマトは刻みニンニクと合わせてパスタでいただく簡単料理。焼いた鯛の身に出汁かけて食う地場の料理と同じくらい、いやもっと手軽な手抜きな料理の素。
 噂の瞬間風速は極めて強烈に育つ。風が吹けば桶屋が儲かるどころの話ではなく、下手をすれば湯婆婆の湯屋が軒並み建っていく。
 噂の足の速さとエネルギーの大きさに助けられているところもある。多少露出のきわどい服を着ていても、ちょっかい出さずにいられたのは、男どもは誰もが噂の暴風雨に晒されまいと襟を立て、防御のコートを頭からすっぽりかぶっていたからだ。渦中から離れた安全圏から傍観しているだけならば、火遊びはできないが火傷もしない。

 なぜ私が島の田舎暮らしを決めたか、ですって?
 それはね、元々憧れていたこともある。だけどそれだけじゃない。都会暮らしだからこそ起こった出来事に愛想を尽かしたことが、最後の未練の綱を断ち切った。
 田舎暮らしは嫌いじゃなかった。元来田舎育ちだったから、川も野も山も海もない都会はどこか違うと思ってた。ならば生まれ故郷に帰ればいいものを、あそこには戻りたくなかった。目がうるさいし、口も出てくりゃ手を上げる者もいる。後ろ指は平気で指すし、それに、寒いの、嫌いだったから。
 だから、移住するなら知る人のない、滅多に雪の降らない地方にしようと決めていた。いいきっかけだった。まさか同じ社内の専務の愛娘と婚約していただなんて知らなかったものだから。
 子は、じき生まれる。生活は保証してくれる約束だったから、20代で隠居暮らし。CTスキャンで生まれてくる子が男の子だとわかっていた。
 お腹を内側から元気よく蹴るようになったこの子には、不憫な思いをさせることなく成長してもらえるだろうか。

「認知はできない。その代わり養育費に生活費、それらに色をつけて渡すから」
 甘い交換条件につい「わかりました」と承諾してしまったが、結果、それでよかったのかどうかはわからない。
 ややこの父親には未練はない。所詮は私を幸せにできなかった男。せいぜい遠くから身を搾るようにお金を振り込み続けるがよい。

 ところが、子供が生まれてから数ヶ月で、毎月の仕送りがパタリと止む。しばらくして、交通事故で他界したことを知った。計算違いだった。あてにしていた毎月の生活費がいきなり途絶えた。今さらあいつの親に談判しても、降って湧いたような話を信じはしないだろう。DNA鑑定で証拠を突きつけてやることも考えたけど、裁判にかかる初期費用の大きさを知った時点で諦めた。
 15歳の頃から人生が暗かったと嘆いた藤圭子の心情が、24歳の私に流れ込んできた。彼女が歌った女のように毎夜男を取っ替え引っ替えできれば少しは気も紛れたかもしれないけれど、身持ちのいい私には寂しさに我が身をすり減らす真似はできなかった。

 島の恩情は時間軸と共に厚くなっていった、訳ありの私の訳をほじくり返そうとすることなく(裏にまわれば相変わらずご盛んに話しているにせよ)、少しずつ、壁が風雪に崩れていくみたいにして、私を包み込んでくれるようになった。ありがたいことである。
 島民からすればもってのほかの母子家庭に、喉元を過ぎて熱さを忘れるみたいにして、慣れてくれたのだと思う。収入を断たれた私は、生活保護のほかに町内会の面々に厚情を受けるようになっていた。野菜も差し入れられれば、産みたての卵ももらえた。魚は新鮮で、作り過ぎたから、もらいものだから「食べて」の差し入れに手を焼くくらいに恵まれた。

 このようにして私は今、島で男の子を育てている。

 さて。
 我が子も翌年、小学校に入学することになった。戸籍に父親の名前がないといろいろと厄介なことになりそうだ。なにせ障子に目もあれば壁には耳だらけの島暮らしである。これまでは小さな町内会の内側で完結していた輪が学区という二回りほど大きな輪に変わる。つまり広範囲におよぶ地均しをこれからしなければならなくなる。

 そろそろ、具合のいいのを見つけねばなるまい。あの時みたいに。私の人生の次のステージには、どのような男が似合うだろう。今宵、次なるステップへの妄想を存分に広げてみましょうか。まずはイメージトレーニングから。
 ところが最後の一手が打ち込めない。
 問題は、連綿と続く現実にあった。島暮らしでは対象となる男がすでに残ってはいなかった。

【チッ】

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