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幻のピアニスト。

 椎名林檎の曲目を華麗な指さばきで演奏しきるガタイのいい男がいる。パッペルベルのカノンを1音ずつ愛おしむように追う老婆がいる。ストリートピアノは、人生を聴き入る、生きる道行きの休息地。生き急ぐ人は足を止め、立ち席は見る間に埋まっていく。聴衆の顔は演奏が始まると不意に現れいでた夢心地の繭に包まれ、コンサートホールの客席についたように穏やかになる。

 ひとつの人生のかけらが奏で終わると、次の人生のかけらが音で語られていく。
 華奢で背の高い女が額に落ちた黒髪をかきあげ、椅子に座った。
「では」でひと区切りをつけ「チューリップを」とつづけた。
 チューリップ? あの童謡の? 誰かが曲の幼さに落胆すると、白けを帯びた風が高揚した聴衆の頬をしな垂れさせ始めた。負債を抱えた感情は、連鎖倒産するように伝染してく。
 誰もが水をさされたと思った。

 ド、レ、ミ、ド レ ミ。

 咲、い、た、咲 い た。

 弾き慣れた音であるが単調に短音が奏でられていく。
 弾きながら女は鍵盤の音に声を重ねた。「1面の花畑バージョンで」。
 言い終えると右手の短音が和音になり、左手がロックンロールのベーシストを弦を伝って引き摺り出した。一輪のチューリップは、地面に伏せ身を隠していた仲間を叩き起こす。いっせいに顔を上げた兵士たちが、一糸乱れぬ行進で、一個の植木鉢を野っ原に咲いた花畑に塗り替え始めた。
 風は、吹いた。ザックザックと刻まれるベースの音を空の高みから見下ろし、アルペジオが西に東に、北に南に、縦横無尽に駆け抜けていく。
 聴衆は熱を帯び、熱気に包まれたピアノが涼風で宥めていく。
 場はたしかに街路から花畑に変わった。誰もがストリートピアノであることを見失っていた。

 生きていると、たまに奇跡が起こる。ほんとうだよ。
 ピアノから奏でられる物語には、真実の奇跡がたまに混じっている。

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