読書はディズニーランド派? それとも。
「本屋大賞より直木賞だよね」と文学少女の君は言う。
「なんで?」
「骨太だから」
君の言葉に自分なりの解釈を当てはめるために逡巡する。だけど、君の問いかけたフックに応える投げ縄が見当たらない。
「どう言うこと?」仕方がないので、読む前に手紙を食ってしまった白山羊さんみたいに、ヒントという恩情を願い出る。
すると君は「仕方ないわね」と、理解の淵にさえ届かぬ僕を呆れたように見下す。見下されようがケツを叩かれようが、わからないものはわからない。わかったふりをして失敗するのを嫌う僕だから、愚鈍と見られようが伊勢饂飩のように芯のないやつと誹られようが、尋ねるべきところは尋ねる。損なわれてしまってからでは遅いので、転ばぬ先の杖として。
だって、そういうものだろ? ワインだって飲み比べていかなければ微妙な差異は嗅ぎ分けられない。お子様カレーばかりを食べ続けていたら、本格欧州カレーの価値が見極められないのと同じでね。だから、理解するための足場がほしいんだ。
「それもそうね。じゃあこういうのはどうかしら。たとえるならばハリウッドの豪華絢爛ドラマと欧州のアート作品との違い。万人受けする本屋大賞がハリウッド映画で、直木賞は一部のコア層に支えられるアート作品。壮大でカラフルか、ちんまりまとまっているけど色濃いか」
「はて。そう言われればわかったような、でもまだ理解できていないような。一歩踏み込んで、具体的な映画でたとえると?」
「『フォレスト・ガンプ』と『ベルリン・天使の詩』くらい違うわね」
「そりゃまたふたつとも古典すぎて、僕には理解できないや。ほかのものにたとえられないの? 食関連、とかはどう?」
「できないことはないわ。前者はインスタ映えで人気がでたお店、後者は映えてないけどじわじわと客の心をつかんでいくお店」
「うん、それなら少し理解の淵に近づけた気がする。つまり直木賞は人気が出るのに時間がかかるというわけね」
「あのね、あなたには話の本質がわかってる? 今話しているのは本屋大賞と直木賞との違いであって、売れる、売れないの話をしているんじゃないの」
「そうなの?」
本屋大賞受賞作と違って硬派の直木賞受賞作は、濃厚で読み進めるのに時間がかかったり、ボリューミィで登頂が難儀だったりする。とっつきにくさが読破という渡川に懸架の邪魔立てをしたりする。読みにくい訳ではないけれど、重厚さが敬遠され、本屋大賞ほど人は手を伸ばさない。コアな人々に支えられていることのほうが重要なのだ。このような事情から、時間をかけて売れていくという公式を当てはめることはできない。
168回直木賞を受賞した千早茜氏の『しろがねの葉』(新潮社)を、本屋大賞は受賞できない作品と評した選評者がおったそうな。確かにハリウッド映画的なメジャー感はなく、インスタ映えするような絢爛豪華なビジュアルも浮かばない。汗と泥と悲劇の物語が、どこかに存在する小さな沼の中で粛々と展開されていくだけだ。渦中にいれば波瀾万丈でも、インディー・ジョーンズの最新作のように観客を巻き込みながら冒険世界をショーアップしてくれるわけではない。
「ハマる人にはハマるのよ」と君は直木賞受賞作品を賞賛する。
なるほど、直木賞はハマる沼かと僕は思う。
「万人がディズニーランドを手放しで喜ぶわけではないからね」
確かに君はエンタメで時間を潰すより、世界遺産を前に成り立ちや歴史に思いを馳せるのが好きな少数派。ディズニーランドに行くのなら、その時間と労力で白神山地に行ってみない? 君はいつでもそういう人だ。
彼女の最後のひと言が、僕に燻っていた残り香のような疑問を見事に一掃していった。