二の足に二の腕を。
納豆とトースト。納豆とカレー。この組み合わせ、個人的にはありえない。先入観が食わず嫌いを貫けと主張する。
でもさあ、狭視眼的視野は井の中の蛙になりかねない。納豆の大豆はメキシコでは塩で味つけされトルティーヤで巻かれることを思えば、粉系発酵加工品やお米と合わせてもあながち誤答とは言えなくなるんだよなあ。
慣れ親しんだ味は速度を上げた車同様、おいそれと止められない。惰性は慣性で、勢いが傍流を力づくで押し流す。
発酵食品ととらえれば、納豆はチーズの仲間。チーズとくればトーストとの相性はばつぐんで先入観もするりと受け入れる。
つまり本音が奥のほうで試してみたい欲求を声に出したのだ。
私という個の人類が最初の一歩を踏み出せないのは、失敗に終わったときの後悔を先取りしていることによる。一生で得られる食事の回数分の1食を無駄にすると、悔やみきれない悔しさが尾を引いてしまう。その予測される辛苦が二の足を踏ませている。
だが、やらないで終わることの後悔は、やって後悔するのと違って、消えない傷跡を刻みつけていくことも知っている。やってだめだった傷口は、時間が癒やしてくれるのだ。
やってみなけりゃわからない。食ってみなけりゃ判断のしようがない。好奇心は生きてるうちに発揮しなけりゃ、生きてる証になりゃしない。
その決断が吉と出るか、凶とでるかはわからない。
人生、他愛もないことで頭を抱え込んでしまうことが多々ある。厄介な案件を抱え込むと、決まって納豆とトーストを思い出す。
あの時だって、壁を乗り越えたじゃないか。今回だって、きっとうまくいく。そのように自身に言い聞かせ、二の腕をあらわに袖をまくる。
二の足には二の腕で処す。
壁はいつだって「えいやっ」の気合いで乗り越えてきた。二の腕二の腕。呪文のように唱えて苦難に立ち向かう。注射のちくんを楽しいことを思い浮かべることでやり過ごしてきたように、息を止めて突破を試みる。
いざ。
案外、イケるものだったよ。納豆トースト。
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