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最近テレビが面白い。

 テレビは面白くなくなった(沈みゆく船が次第に傾くみたいにして)とずっと思っていた。画面に見入れば、根性、忍耐、限界……どれもが破壊的で自暴自棄でなりふり構わず感にあふれてた。バラエティ番組の話だけど、つまらないだけでなく、見ているのが辛くなった。どちらかといえば、本性をさらけ出すタイプではなく、尊厳が感じられる構成のものを好む傾向が、面白くなさに真剣な一票を投じ続けていた。

 だけどある日、そんな思いを悔い改めることになる。自分が犯してしまった罪に気づかされる聖書の民みたいに。

 あれ? このごろ面白い、と感じ始めたのは、テレビ制作の指向に変化があったこともある。バラエティ番組にも、出演者に対する尊厳が感じられたのだ。ただ肉体的、精神的に追い込むのではなく、また恥を上塗りさせていくものでもなく、加えてからかうことに終始するだけでもない。人をなじれば意地悪の極地は底なしの様相を呈するが、掬い取るに儚く消え入りそうな希望を一点そっと灯している、そんな番組の作り方をしていた。
 制作指向の軌道修正が着火剤となったのだろう。視聴の姿勢が大きく変わった。
 考えてみれば、飽きたテレビは受動で見ていた。受けるだけの刺激は、繰り返せば次第に麻痺してくる。辛さを求め始めるとエスカレートしていくように、テレビから受ける刺激も「より面白く、過激に」と貪欲になっていた。画面のこちら側で番組を見る視聴者は、対岸の火事を眺めているわけだから、無責任でいられる。あれだけ高まっていた熱意も、ある日とつぜんに発電を止める。同じものを食べ続けていると飽きがくるように、人の限界点に突入した制作側の頭脳で紡がれるマンネリに、視聴者は投了の判定を下したのだった。かくして築き上げられたテレビのバベルの塔は、臨界点を境に、つま先だちの足元をぷるぷる震わせながら崩壊した。

 ある日、くだらないと烙印を押したはずのバラエティ番組にうっかり見入ってしまった。受動しただけに終わらなかったから。番組の表層を通して、向こう側が透けて見えた。演出された出演者を裏方で支えるのに奔走したスタッフの姿が、突如透けて見えた。映し出されていないのに(たまにあざとくスタッフを映し出す演出をスパイスがわりにふりかけることはするけれど、そうした目眩し的な演出ではなく)、カメラワークやそれに合わせて微調整を繰り返す照明スタッフの動きが感じ取れた。カメラ映りに終始気を配り、休憩中にセットをソツなくかいがいしく整えるヘアメイクの影をみた。演出家が展開の予測をどのように見積もっていたかが画面を越えて伝わってきて、その出来を値踏みした。脚本を読む出演者の出来不出来具合に、ほっこりしたり、呆れ返ったり、ほおと感嘆したりした。スタジオの装置やアートの苦心と遊び心と妥協を垣間見て、褒め称えてもいい箇所と、苦虫を潰した箇所が浮かび上がってきた。
 ロケならば、ロケにつきもののハプニングの真偽が隠しきれずにこぼれ出たり、もっともらしい偶然に奔走したスタッフの汗と、演出のプロデューサーから浴びせられる罵倒が、収録後の編集作業で行間に閉じ込められていくのを目の当たりにした。

 表層の面白さを感じ取る大脳皮質の層が地盤沈下を起こし、元来地中に埋まっている骨太思考の地層が表舞台に躍り出た。それは、簡単には流行に流されない踏ん張りの足腰だ。腰に挿せば威嚇となり、振り下ろせば肉を断つ。その刀がたどる太刀筋は、ふだんは視聴者から見えない舞台の裏側を掘り起こす背徳行為だ。

 人は繕った仮面の下にこそ本性をしまっている。真実を閉じ込めている。その、水面に上がってこない見せざる核心を、海に潜り氷山の下部までまわり込んで探る。
 すると見えてくる。快挙だ。出演者を追い込み、笑いを取るために炙り出される本性を見るのじゃない。炙り出そうとする側の、裏方で日々努力の精進を積んでいる滑稽なまでに真剣な苦労の本性を見定める。
 そのような視点でバラエティを見られるようになったことで、テレビは再び面白みを発光しはじめた。

【テレビ、いったんしまったんだけどね。】

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