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旅行雑誌編集者-3 走る。

 原稿を書くのにも勢いが要る。ハンマー投げで勢いをつけるのと似ている。勢いをつけるのに幾つかの要素を組み合わせなければならない。創造スイッチを入れて脳に通電、文言化の素となるネタの再現(イメージ化)、そして描き続けるための給水。マラソンランナーが走り続けるために体に水分を流し込むのと同じように、ものを書くのにも外側から文章というエネルギーを補充してやらないと、作稿の長距離は走れない。途中で枯れて倒れる前に、道すがら補給できる場所ごとに可能な分をチロチロと。また、事前に溜めておく場合もある。
 作稿に必要な水分が途中で途切れることもあって、その時ほど辛いことはない。書きたいのに文章が枯渇しており、絞り出そうにもなかなかアイデアが出てこない。時間に追われれば追われるほど読む時間は減少するのに、書き上げなければならないプレッシャーが残された僅かな余地分の読書時間さえ奪い取る。作稿エナジーはガソリンスタンドでレギュラーを入れるみたいに、簡便に補給できるものではない。まとまった読書はEVの蓄電のごとく、時間を優雅にかけなければままならない。
 補給を取れなければ根性で乗り切るしかなくなってくる。苦しいが、その状態で突っ走らないと締切に間に合わない。

 読むのは新聞ではいけない。雑誌もあんまり役に立たない。小説や寓話など、虚を膨張させる筆致の巧妙が舌に合う。読めばたちまち血となり肉となり、得た知識が無胃魚のように、食べたそばから吸収されて、筆先から流れ出してくる。
 文章が巧みに仕上がるのはなんとも気持ちのよい瞬間である。決して羊頭狗肉ようとうくにくであってはならない。文章にキレはあっても、読者を欺くようなことをしてはいけない。
 このようにして、原稿に筆を走らせる。

 走る。
 原稿ばかりではない。原稿を仕上げるための取材でも。

 目的地に向かって。

 取材は車で。ひたすら走った。日本全国津々浦々、都心の編集部から北は北海道の稚内から南は沖縄……はさすがにレンタカーで回ったけど、九州は鹿児島まで、走りに走って取材を敢行する。
 長距離は運転を交代で。1日で走りきれなければご褒美のような休息1泊をはさむ。西の突端まで行く場合は、神戸あたりが中継地。夜の街並みと美酒が心地よい。

 県境の獣道みたいな林道を超えることも珍しくはなかった。
 もちろん物事、すべてが一路順風というわけにはいかない。片道一車線の未舗装路で腰の高さほどもある巨岩に行く手を阻まれたこともあった。取材スタッフ3名、総がかりで押してもおびくともしない巨岩だった。いったい何キロの重量だったのだろう。人間のちっぽけな力など寄せ付けない頑とした意地の塊だった。

 散見する岩が地面から生えた牙のような、あたかも武装の草食恐竜を思わせる道もあった。あの時は、山奥の田舎から隣県の田舎へ移動する予定で、山越えはもともと組み込まれているルートだった。迂回は考えていなかった。迂回はあまりにも大回りすぎて、効率がよくない。取材日程を圧迫することもあって、強行突破を試みる。
 ところが災いは、人のいちばん弱いところを突いてくる。剣のように尖った牙が、扁平率の高いタイヤを造作もなく切り裂いた。
 ぷしゅう。
 あちゃ、パンクした。
 それでもこちとら車旅のプロ。タイヤ交換は造作もないこと。気を取りなして再出発。したまではいいが、剣の牙岩の攻撃は執拗で、扁平率の高いタイヤはあまりに脆かった。
 ぷしゅう。二度目の負傷。そして車にとって、二度目のパンクは致命傷である。世の中の乗用車という乗用車は、二度目のパンクに備えた2本目のスペアタイヤなど積んではいない(ランフラット装着車は1本たりともスペアタイヤを積んではいない)。
 電波は微塵も届かない山の中。人家をマップで確かめて、歩くこと1時間弱。固定電話を借りてJAF呼んで、車ごと吊られて山を降りていく。麓に着いた頃にはすでに陽が沈み、修理も間に合わず、その日の取材はそこまで。取材日程が大きく後ろにずれ込んだのは言うまでもないが、もうひとつ、大きな問題が生じていた。翌日の修理が終わるまでの寝床がない。
「うちに泊まっていきゃあいい」
 一宿一飯、ビールまでつけていただいて、JAFのご家庭にお世話になった。迷惑をかけてしまったが、あれほど大きな愛に包まれると、自分がちっぽけな羊に思えてくる。

 翌朝、気を取り直して取材再開。急いではいたけれど、大回りしたのは苦い痛恨の経験が知恵をまたひとつ授けてくれたから。

 スタッフの中に、これまで走った取材ルートを編集部の壁に貼ったどでかい日本の白地図上にマーカー線を引いていく几帳面なやつがいた。その彩られていく紋様は、東京を中心に血管を伸ばす、肉体を持たない血液循環みたいに見えた。
 取材で走る。あたかも体を流れる血液のように。編集部という雑誌の心臓から送られる血液は末端神経まで足を伸ばし、仕事を終えて中心地に戻ってくる。

 当時はそのルーティンが重くのしかかってくるように思えたこともあった。来る日も来る日も繰り返される、終わりなき戦い。それは命を喰らう蟻地獄であり、抜け出すことのできない監獄だった。
 だが今となってはあまりにも懐かしい輝きだ。あの道をもう一度走らせてくれるのならば、喜んで受け入れるたい。
 雑誌には寿命がある。発刊が止まったと同時に、走り続けた仕事の道も、走った道の記憶も止まっている。
 だけど気持ちはまだ止まっちゃいない。いまだ記憶の中を走り続けている。

 現在、取材を敢行する旅行雑誌はなくなった。ネットで得られる情報が、求められる臨場感に合致するようになったからだ。わざわざ時差の出る情報を、制作原価がかかることによりそこそこの値付けがされた商品に、お金を払う必然性がなくなった。紙媒体では広告収入が見込めなくなったことも、出版業界全体の話になるけれど、衰退していった原因のひとつである。

 いずれ機を見て、出版業界の盛衰に触れる機会もあろうかと思う。だけどその前に。旅行雑誌編集者として、語らなければならないことがある。
 次回がいつになるのか今のところ決まってはいないが、続編を待て。

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