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ゆるいにぎり。

 お米は炊き上がると美味しくするためにシャモジを入れる。「おいしくなあれ」とわっしょいわっしょい。ひと混ぜふた混ぜ、「もっと美味しくなあれ」と三混ぜ、四混ぜ。ほどよく空気を含んだら、ぎゅうぎゅうだった炊き立てが、上出来ふっくらご飯になって、目を見つめ合いながあ湯気のなか喜ぶ。腕のいい寿司職人だって握るシャリに空気を入れてお寿司を完成させるというじゃないか。ほどよい空気との共演は美味しいご飯の必需品、切っても切れない縁で結ばれている。
 なのに世に蔓延るおにぎりときたら。
 きっちりしっかり、ぎゅっと握られたおにぎりは、空気の入り込む余地が追い出されてる。これでは旨みの張り込む余地などありゃしない。

 おにぎりは、握らないに限る。「おにぎらず」なんていうレシピがあって幅を利かせているくらいだから、割とみんなゆるく空気を含んだおにぎりを潜在的に求めてる。

 外食でおにぎりを食べるときは、ぎゅっとしていないおにぎりを供するお店に行く。ふっくらご飯はふかふかで、米粒のお隣同士は独立独歩、見方を変えればそれぞれ勝手にやってるようで、放っておけばほろほろと雪崩のように崩れ落ちる。そこを、焼きたてパリッと糊付けしたような海苔で受け止めて、お米がこぼれぬうちに口に運ぶ。かぷりと噛むと、むぎゅとお米が身をよじりり横からはみ出してくるけれど、脇をおさえ、こぼれるを拾い、指にしがみつく最後の一粒を掬うように食べる。
 
 個人差はあれど、我がおにぎりはかくあるべきだと思ってる。
 
 コンビニおにぎり、お世話になることままあれど、ぎゅっとのおにぎり、本意にあらず。だが、世が世なら叶わぬ恋があるように、限られた状況下で選べぬおにぎりの時がある。
 うむ、それはそれで仕方あるまい。空腹がすぎた腹はおにぎりを選べる立場にない。

 具は鮭とたらこ。大きめなふっくらはふたつ食べれば欲求はひとまずナリを潜める。ひと月に数度の恒例行事。来月は盛夏に突入してるだろうなと気候の移ろいを計算しつつ、暑さにはたらこを明太子に変えて凌いでやろうと目算たてる。だが暑さ寒さに惑わされることなく鮭は外さない。あれがないとおにぎり食べた気がしない。ダジャレじゃないけど避けられない。

 高原では空気が美味い。うまい空気の下で食うおにぎりはまた格別なんだよなと経験値がそそのかしてくる。
 問題もある。空気をたっぷり含んだおにぎりは、長時間持ち歩くには分が悪い。身持ちが悪すぎる。下手をしなくてもリュックの隙間の形に見事なまでに同化する。
 おにぎりはふっくらが好みだけれど、性格はきっちりするようにできている。転ばぬ先の杖の教えが脳裏をかすめ、高原おにぎりはいつだって固く結ばれる。

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