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双子というキーワードが広げたもの。

「研究対象だったんですよ」
 だから「入学できた」のだと彼は、粘度を持たない清流のようにさらりと言った。

 双子研究で彼は双子の妹と4年間、慶應義塾大学に通った。
 どのようなかたちで研究に寄与し、どんなことを感じながらキャンパス・ライフを送ったのかを訊くには時間が足りなかった。思いは先走るのに手が動かないもどかしさがあった。
 時間が足りていれば、訊きたかったことを尋ねることはできただろうか。
 
 終わってしまったものに関しては、何でもいえる。「たられば」はいつだって空まわりの隣にいる。
 すべては覆りようのない記憶の中で膝を抱えている。

 双子に初めて出会ったのは、第2期義務教育期間に突入した時のことだった。顔はそっくりなのに、声の質が明らかに違っていた。ひとりは澄んでいるのに、もうひとりの声はくぐもっていた。花粉症で鼻の通りが悪くてすみません、みたいな声質。鼻づまりのせいでよけいに負担がかかるのか、長く話していると息が切れてくるような印象が今でも尾を引く。
 並ぶと見分けがつかなかった。
 だけどいったん動き始めると違いがわかる。澄んだ声はいつだってひと呼吸置いてから動き出すのに、鼻づまりは意志と体がぴったりと一致しタイムラグがない。シンクロ具合はまるで双子のようで、意識と行動はいつだって息を合わせていた。
 そっくりでありながら微妙に違っていて、2人合わせて双子を形成していた。
 一卵性双生児だった。

 羊三部作の中で会った双子が印象に残る2組目の双子だ。たしか「僕」を訪ねてきた誰かに双子が必要とは思えないひと言を発したはずだ。彼女たちは口をそろえ、訪問者に伝えるべきではない私生活を暴露する。「彼は獣よ」。
 息が揃い見た目もそっくりな、それはもう絵に描いたような完璧な双子にからかわれた訪問者は戸惑う。体内で思考が核分裂を起こし、「僕」と「双子」に起こったこと、起こらなかったこと、これから起こりうること、起こるかもしれないことそれぞれが独立して好き放題にひとり歩きし始めた。
 
 分裂がどこから始まったのか、見分けられない。雲の重い日に水平線を探すようなものだった。

 3組目が冒頭二卵性双生児の彼で、4番目が『羊と鋼の森』の由仁と和音。見た目が同じな一卵性双生児。性格と通う学校が違う女子高生。

 人の心に打ち付けられる楔はひとつではない。その中のひとつに「双子」があっただけだ。
 とくに双子に思い入れがあったり特殊な感情を抱いているわけではない。いくつか点が並んだことで、線で結んでみただけだ。
 宮下奈都氏は『羊と鋼の森』に音叉を投げ入れた。硬く冷たく光を返す金属の「腕」を刺激すると、右の子と左の子が彼らの言葉で騒ぎ出す。右側の金属と左側の金属が共鳴する。双子と重なる。

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 双子を分裂したもうひとりの自分の象徴と捉える考え方がある。意志の確立した大人も内側はひとりじゃないってことなんだね。
 これまで言われてきたものの別角度からの解釈であり、そういう解釈ももちろんあるよね、と思う。

 家に訪ねてきた訪問者を迎える「まるで獣ね」の双子も、どれだけ似ていても現実社会に投影すれば、別人格の社会に認められる者になる。東野圭吾氏の『分身』や、カズオ・イシグロ氏の『わたしを離さないで』の「もうひとりの自分」とは違う。

 物語を楽しむ自分と、味わう自分と、モノにしたい自分と、実社会を見つめる自分と、実社会に生きる自分と、読む人を予測する自分と、明日はどんなことを書こうかなと不安とワクワク感の双子の感情を抱く自分とが、分裂したままそれぞれが道を譲らず混在している。溶け込むことのない饒舌な思いの数々が渦を巻きカオスとなって、でも束にすれば遠目にはひとつに見えてしまう。
 そのようにして今日までやってきたし、きっとこれからも。

 双子というキーワードが広げた本日の波紋。
 



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