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自分ノーマル。

今朝の新聞に「子どもはノーマルを知らない」とあって、はっとさせられました。
なるほど、教えなければ正解も間違いも子どもにはわかりません。
そのようにして子どもはその時々のノーマルを身につけていく。
子どもは育っていく過程に敷かれたレールをなぞっていくのです。

それって、、、。
手放しで受け要れるわけにはいきませんでした。
受け容れなければならない現代のあれこれに悩みの種を感じずにはいられなかったからです。

はっとさせられたのには、子どもばかりが当事者ではないのではないか、と思いがいたったこともありました。
大人だって、育っていく社会でそのときどきの「ノーマル」を身につけてきたのです。

共通認識としてのノーマル。
そいつは時間と共に大きく育って、頑なで強固になって「例外」を認めなくなります。

でも、自然の摂理はノーマルに合わせてくれるほどお人よしではありません。
ある日突然、卓袱台をひっくり返す。せっかく長尺ものを計ろうと伸ばした巻き尺が意図せず巻き戻ってしまうみたいに。

水の泡。

そのようにして悪いことが起こります。

・・・・・。

でも、反動もあります。

いいことが起こる可能性だって。

いいことは、これまでの経験からすれば、そうそうセンセーショナルに起こるものではありません。
けし粒ほどの種が芽を出し根を張って、ささやかな花を咲かせる感じ。

それは「自分幸福の訴求」の先に訪れるもののような気がします。

まずは自分の幸せとは何なのかを考え、歩み始める。
そうした選択をする。
自分でそう決める。

目ざすのは、自分の幸せです。
自分だけの幸せではなく、自分の幸せです。
蹴落とすことで自分が幸せの優位に立つのではなく、ひとり立ちした自分の幸せです。

それは他者の物差しに惑わされることなく、自分のノーマルを築くこと。

言葉を換えれば、自分<も>幸せであること、といえるでしょう。
根底には「幸せの見つけ方は人の数だけ」という意識が必要だからです。

これは、新しいノーマルの在り方ではないかと考えています。
「幸せの見つけ方は人の数だけ」という意識は個人主義のベースであり、これまでの日本では馴染みにくかったものだったからです。
そしてこの小さな変化はいずれ大きな波になる。

「雨垂れ石を穿つ」(あまだれいしをうがつ)。

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幸せは自分から。


かねてより、人の決めた枠に自分をあてはめることに違和を感じていました。
他者の決めたルールとレールに従うこと、従わなければ仲間はずれ、そんな連帯優先の考え方に、うまくなじめずにいたのです。

それがここにきて「自分ノーマル」ががんばりはじめた。

これは予感なのか、錯覚なのか?

少なくとも自分にとっては楽になるかなあ、と期待しているところです。


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