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下に立つ。

 かつて村上春樹氏が、人生折り返し地点を過ぎて、人々が機能しあって社会が蠢いていることを意識できた、みたいなことをエッセイで書いていた。スーパーで買うキャベツだって、作っている人もいれば運ぶ人もいる。電気にしても水にしても、お風呂だって、誰かのお膳立てのもと利用している。強調型だと「利用してやっている」ということになる。傲慢になれば「金払ってんだからさ」も平気で口にする馬鹿者がいるわけだから、理解は上から目線にほかならない。そのお金だって、作っている人もいれば、構造を構築した人、均衡を保とうとする人、ルールを厳格に死守しようとする人がずらりタッグを組んで取り巻いているっていうのにね。
 人は、人と人が創造した巨大機構という手のひらの上で踊らされている。

 手のひらの下に潜り込むような真似はあまりしない。

 アンダースタンドという言葉を使う国の人がいる。あなたの下に立ち、理解しました、というスタンスのようである。言語学から見た人と人との位置関係は、相手をたてまつりあう文化なそうな。「あなたの言っていることは、下から目線で理解させていただきました」と解釈しうる。
 この国の文化が謙虚を美徳とするのは、本性に理想を注いだからなんだろうな。「利用させてもらっています」はいつだって焼石に水、瞬時蒸発の儚い刹那。消えて無くなるものだから、灼熱大地で逃げる水に辿りつこうと躍起に追い続ける。

 日々の暮らしに潤いが足りないと感じてしまうのは、追っても無駄な水を追っているからなのだろう。

 そんな時には、腹を決め腰を据えに美味いコーヒーを飲みに行く。遠くの国で汗を流す人が育て、出荷し、運ばれて、焙煎された豆が挽かれてお湯通されて、カップに注がれ「お待たせしました」「はい、どうぞ」。

 利用させていただく。

 コーヒーブレイクの間を人生に割り込ませることができるのも、それを支えてくれる人たちがいるおかげ。アクセクのアクセル緩めると、人の下に立つことのコクが内側から染みてくる思いがする。人生、折り返し地点を過ぎたからそう思えるようになったのでしょうか、村上さん?
 懸命に昇ってきた景色は、振り返ればゆるい下り坂。大地の上で、人の下に立つ。そんな自分のホログラムが過去の記録と重なる。
 口に含んだコーヒーが、口中で愉快におどけた味がした。

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