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 人は自ら狂うのか。
 社会に狂わされるのか。

 隙間から手を伸ばし男を誘っていたのは吉原の女ではない。鉄格子から手を伸ばす精神病棟の患者だった。
 女は客を取りにかかったわけではない。男が欲しかっただけなのだ。

 建前を通す社会では、制御のかかる欲情も、ネジが飛んでしまっていては、体裁を踏まえた言動など選んでおれぬ。
 
 話を踏み外しているならば、それは自ら狂った証か、それとも狂わされた末路であるととるのが妥当なのか。
 
 ネジが飛ぶ。TOKIOの空を飛んでいく。NIHONの空を超えていく。空気の圧縮に耐えかねて、弾かれ飛んでいく。それは、自由意志でしがみつくことを止めたのか、それとも社会の力に抗いきれなくなって押し出されてしまったせいなのか。
 
 かつてそこにあった精神病棟は今はもうない。患者がいなくなったのではない。名もなき人気もなき山林に、ひっそりの間に移されて、人目から遠ざけられてしまったことで。
 
 マジョリティの原理はいつだって同じだ。口では「少数意見の尊重」と口をそろえるも、その実、実現が容易でないものに対しては「仕方ないよね」で片付ける。
 その行為、まるで『臭いものには蓋』そのもの。

 誰だ? 狡猾にそれを臭いものだと言い聞かせるやつは。
 
 一見、人と人とがシームレスに繋がっているように見える社会には、目には見えない縛りのルールが縦横無尽に張り巡らされている。触れたら最後、スパッと身を切られてしまう。
 人は、切られるたびに学んでいく。切られまいと知恵を絞り、傷を増やさないように努め始める。怯えの人生の幕開けだ。
 怯えは自らをルールの呪縛みたいにして縛りつけていく。
 耐えきれなくなった時、人は狂う。自らの意思でそうするようにも思えるし、社会に仕向けられたようにも見える。
 社会が人を縛りつけるものであるならば、発狂の種は誰にでも巣食う。逃れる術はない。スイッチを自らが押すか、あるいは押されるかの二択。運よく生涯、そのスイッチを押さずに済む者もいる。いや正確には、押さずに済んだと思い込む者もいる。
 
 人は自らの意思に関係なく、どこかで些少なりとも狂っている。社会に狂わされてもいる。自ら認識してないだけなのだ。
 
 こんなことを考え続けていくと、社会とは乖離していく思考の主を、社会が隔離しにかかってくるやもしれぬけど。
 
 精神病棟は今、名もなき人気もなき山林にある。

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