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生きているか死んでいるかの違いは、目が覚めるか覚めないかの違いだけなんだよ。

 背伸びしたって届きはしないマティスの筆致を必死に真似て、記憶で綴った『オフィーリア』(ミレー)。

 きっかけは、生死哲学の果てのひとつで擦った火打ち石。バチッと火花が閃いて、春の小川みたいにサラサラ流れゆく命を描いてみたくなったせい。
 命の流れ着く先は、天か、銀河か?

 絵というものは、たとえばあの絵みたいに、息をする時期としない時期との同居を許しつつ、錯綜的なレイヤーを無数に喚起する、錬金術とは一文字違いの錬夢術。

 レイヤーは読書に波及し、絵画つながりでルソー作品『夢』の物語を手に取らせた。原田マハ氏の『楽園のカンヴァス』。目にした新たな『夢』は真作なのか? 贋作なのか? 作品に対する眼識は、作品の、見定める者の生死をゆらゆら揺らめき立たせた後に左右する。未来の栄光と凋落は、そのまま生と死を生き映す。

 そんなこんなで絵画と書籍、哲学が三つ巴でくんずほぐれず、息を詰まらせては吐き出して、不可解無理解の闇に弄ばれ黄泉の淵まで彷徨いながらも、ついには国境向こうの隧道先に希望の光明。生死を決するのは、目が覚めるか否か、いずれかの終着駅で決着を迎えることを知る。

 ところ変わって現実社会。明日もまた目を覚まさなくてはいけない日々に戻る。戻る刹那、車窓からチラと視界に入る鏡に、生きることを義務とする、作り込まれた世界が映りこむ。夢のような時間が覚めた先に待つものは、今日も明日も明後日も、似た絵画を生産すべく敷かれた鋼鉄のレール。

 せめてこの人生、真作なのだと信じたい。それともやはり神策か。

 社会に踊らされる贋作ならば、いよいよ目を覚まさなくてはいけない。

「そろそろ目覚めの時間だよ。起きなさい、オフィーリア」

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