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回転寿司、大展開。

 今や、寿司食いに行こうと言えば、スシローにする? 蔵寿司がいいなあ、となる。近所の回らないお寿司屋さんは眼中になく、候補にあがることさえない。
 かつて寿司屋といえば回らないお寿司屋さんばかりであった。いったんカウンターに腰をおろせば、幕の内に仕立てられた並、上、特上以外は得体の知れない強奪の底なし沼だった。「時価」というトラップが、勘定の際で目を飛び出させる。
 社費で領収書を受け取る者以外、はたまた近所づきあいのなせる技で上限に線を引ける持つ者以外、安易に寿司屋の門を叩ける者などいなかった。
 チャレンジャーは給料日がもたらす月に一度の嬉々たる激昂に載せて、都度都度現れたけれども、か弱き道場破りの末路のように、「お会計」で差し出される勘定を目にしたとたんに、燃え尽きた矢吹よろしくすべてが灰となり、白く頽れた。
 それほどまでに寿司屋の敷居は高く、背伸びしてもまだなお高く聳える高の華であった。
 
 それを、芝生を返す建て替え業者のように逆転劇を起こして見せたのが回転寿司だった。一皿100円という禁断の果実は出費を渋る弱者に財布を開花させ、大枚叩いた気にさせる喰わせっぷりにも財布への飽くなき優しさが、ついには食う者に満腹をもたらし、微散財に顔をほころばせた。
 昭和に命の大半を捧げた者ならば誰もが経験してきた『金ない者は食うべからず』の大布令は、回転寿司の強靭な一刀に斬られ、討たれたのだった。
 
 もちろん生き延びた高級非回転寿司店も数多く残ってはいる。だが知名度にはかなりの偏りがあり、『金もつ金払いのいい者』にだけ口づてで伝わるだけである。
 
 さて、このようにして市民権を得て与党となった回転寿司ではあるけれど、さすが回転するだけあって、ここで原点回帰の動きがちらほら散見できるようになった。一部を回すが大半を注文でこなす回転寿司店は、《回転する寿司店は安価で安心》のイメージを餌に、固く財布の紐を閉めた客をまんまとたぶらかすし、高級素材で「1ランク上の寿司を食いたい」欲求に、客の(これなら高くても仕方ないね)の納得を引き出した。
 
「昨夜、寿司を食いに行ったんだ」と聞かされ、興味は店と値段に向いた。
 いやあ、回転寿司だったんだけどね、と聞けば庶民の耳には心地いい。だけど、2人で1万8000円! の二言目に腰を抜かした。お酒はぬるめのお酒2本だけという。あとは握り一択。これで1万8000円ならば、回らない寿司屋と価格的になんら変わらない。
 よほどの高級素材の名を連発したか、はたまた、かつての『ぼったくり気味勘定』に翻弄されたのか。
 庶民の耳にはにわかに信じがたい高額に、彼、いいもの頼んだからなあ、とケロリと言う。
 彼は昭和を知らない平成生まれ。なるほど、世代のギャプはこんなところにも現れているのかと感心しつつ、置いて行かれた感と、差をつけられた感、知る者の重さと知らない者のあっさりさ加減とが入り混じった。
 入り混じっているのに、回転寿司は回転寿司として凛と『安心の明朗会計』を掲げ、回転しない寿司店との違いを主張してやまないし、「高くても明朗会系」を押しつけてくる。
 時代は回る。回って回って、回って回ると、巡るはみゆきで、回るは円広志だったけど、そんなこた、どうでもいいや、くらいに変化して、今や回転寿司はかつての回らない寿司屋の領域にまで涼しい顔して侵食してきていることにやっとのことで気がついた。
 
 時すでに遅し。安くて美味い回転寿司屋の時代は終わっていたのだ。いや、壊滅したわけではない。まだ安くて美味い回転寿司屋は健在だ。だから選択肢が広がっただけのことではあるが、なぜか安穏とできずにいる。なぜなら、困ったことに、安くて美味い回転寿司より、明確に高級でより美味い回転寿司屋が現れたことに迷いが生じた。
 安くて美味い回転寿司屋通いを2回がまんすれば、高級回転鮨屋に行ける。3回分の出費を強いられたら、次回の安価な回転寿司屋行き1回をがまんすればいい。そのようにして迷いは二転三転、みたらし団子がうまく焼けますようにと願いを込めながら返し続けるように、気の迷いは表裏を順ぐり高みの空を見上げながら回転し続けている。
 さて。

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