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社会が窮屈と感じた時に開けるもの。

 広い世界と忙しい社会で暮らしているわたしたち。
 ふだんはなんら疑問を抱くことなく、淡々安穏時々楽々たまにはドキドキあくせくドタバタ、それでものびのびスッキリくったり能天気にやってはいるけれど、たまに息苦しさを感じることってある。
 あなたにもあるでしょ? そんな時。
 そのワケを知っている?
 ふふふ。
 それはね。
 単純なことなんだ。
 私たちはこれまで「外に出る」「社会に出る」とは、狭小な世界からの羽ばたきと教えられてきた。だけど、実は違っていたんだな。社会を牛耳る者たちの口車に乗せられて、社会の歯車でありながら羽ばたいている幻夢を見せられていたわけさ。
 つまり、社会という限られた画角に収められた小鳥だったってこと。
 それが証拠に、社会への扉の内側で暗闇に目を慣れさせれば、その内宇宙の広大さが見えてくる。社会はテレビの画面と同じで、大型化はするけど限りはある。対する内宇宙は太鼓の昔より無制限・無制約。無限大だった。
 社会が窮屈と感じるなら、その時の目は社会ではなく内なる宇宙に向いている。社会の狭さにげんなり幻滅しているシグナルだったのさ。
 
 言っとくけど、内宇宙に目を向けるとは、閉じこもるのとは違う。閉じこもりとは、内宇宙の片隅に個室を作って籠城すること。誰の内宇宙とも交わらない。だけど社会の非束縛者はどこにでも行けるし誰とでも繋がれる『どこでもドア』と『誰とでもドア』を内宇宙にいくつも用意しているものなんだ。

 信じられないなら証拠を見せてあげる。閉じた瞼の裏側に、その暗闇に、明かりの漏れる隙間を顕すから。暗がりに目が慣れて取手が浮かび上がってきたならば、勇気を出して手を伸ばし、ノブを回してみてちょうだい。
 扉を開くと、ほら、そこには

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