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【二輪の景色-6】今度は私が。

 2017年秋、お母さんのひと言にお兄ちゃんは田舎のおばあちゃんちに立ち寄った。最初、遠回りになるからってあんなに渋っていたのに、帰ってきたら嬉々とした顔してた。
「なにかいいことでもあった?」訊くと、「まあね」と少しもったいぶられた。おばあちゃんちは田畑が広がる、平野が山脈に持ち上げられるちょうどその境目のところあたりにある。ここからだと超絶遠い。夏はカエルが鳴き、秋にはたわわに実る。水はいまだに井戸で、米は土間で炊く。空気は甘く、少しもったりしている。気持ちを鎮めて走るにはいいところだと思う。
「お母さんには内緒なんだけどな」
 お兄ちゃんは声を顰めて耳打ちしてきた。
「あのな」
 うん?
「おばあちゃんを乗っけてきた」
 乗っけてきた? 「乗っけてきたって、まさかあのカワサキの後ろに?」私は絶句で、息が止まる。
「そうだよ。バレたら母さんカンムリだ」
 あの80を超えた老人を、バイクの後ろに? それが本当のことだとしたら大変なことだ。落っこちる危険が満載だし、息を止めるどころか心臓が止まってしまうことにもなりかねない。
「そりゃあお母さんには言えないわ。お兄ちゃん、またずいぶんな冒険をしてきたものね」
 お兄ちゃんのしでかした暴挙に呆れながらも、私はあの田園風景をお兄ちゃんがおばあちゃんを乗っけて風を切って走るところを想像していた。
「覚えているか?」
「なにを?」
「居間にあった茶箪笥の上の写真」
「ぜんぜん」
「写真たてに入れられた写真の1枚に、じいちゃんが若いころの写真があって、そこに若かりしころのばあちゃんとバイクが写っていたんだ。メグロ。今乗ってるバイクのご先祖様さ」
 あのころ私はバイクにもおばあちゃんちに行くことにも興味がなかった。田舎は2日もいれば退屈が私の首を締めはじめたし、糠味噌臭かったし、ぽっとんだったし。お風呂に入るのにも薪で汚れてから入らなければならないのもがまんができなかった。
「物置があっただろ? 母屋の裏に」
「あったあった。あの、いつ潰れても不思議じゃないくらいにボロで朽ち果てた」
「そうそう、それそれ。入ってみたんだ」
「あの荒屋あばらやに?」
「そう、その荒屋に。おまえ、入ったことある?」
 あるわけがなかった。おばあちゃんちの母屋にさえ最大で3日しかとどまれなかったのに、ましてや崩壊リスクのある物置になんて。
「あったんだよ」
「あったって、なにが」
「写真のメグロ。本物。毛布をかぶって。埃だらけだったけど」
 あの時お兄ちゃんは、写真たての若かりしおばあちゃんが手にしていた星形マークのヘルメットを、翌日届くネット通販で買った。星は写真の白抜きではなく黒く塗られていて、まったく同じものというわけにはいかなかったけれど、それがいちばん当時のものに近かったから。バイクもメグロからWに移り変わっている。ヘルメットも時代に合わせて進化したということでばあちゃんには納得してもらおうと思った、とお兄ちゃんは言っていた。
 もちろん、おばあちゃんに解説なんて野暮なことはしてこなかった。お兄ちゃんにはお兄ちゃん流の筋の通し方があって、私はお兄ちゃんのそんなところが好きだった。
「手放すこともできただろうに、ずっととっておいてたんだ、ばあちゃん」
 そのあとは、言われなくても私にはわかった。おばあちゃん、ずっと大事にしていたんだ。私はこれまでおばあちゃんを大事にしたこと、あっただろうか。

 2020年秋。
「クルマ買うことにしたから、バイクを売って頭金の足しにすることにしたよ」とお兄ちゃんが言い出した。バイクとクルマ、2台あってもどうせ1台は乗らなくなる。懸命な判断だと思った。
「そうね」と私は素っ気なく答えた。答えながら、私はカワサキの後ろに乗っけてもらった過去の道を思い出していた。ひとつ思い出すと思い出の道の先で、次の思い出が現れて道が繋がっていく。いろんなところを走った。山道を体を左右に倒しながら上っていったこともある。峠の空き地でコーヒーを淹れてもらったっけ。避暑の湖畔で、魚が跳ねるのをずっと待っていたこともあった。超巨大なパラボラアンテナの横で、流れ星を待つ旅もあった。学生時代のわたしの旅は、思い起こせばカワサキと共にあった。
 それはお兄ちゃんが私にくれた宝箱だったのかもしれない。カワサキのリアシートは、私にとって宝物だったーーそのことを私は初めて意識した。

「待って」
 ん? クルマのカタログから重たそうに惚けた顔を上げたお兄ちゃんが私のひと声で目を向けた。
 バイクの後ろで嬉しそうにするおばあちゃんの顔が浮かんだ。お兄ちゃんの後ろに乗っけてもらって、あの歳になって浮かべた、何年も何年も閉じ込めていた満面の笑み。
 私はずっと、おばあちゃん孝行というものから遠ざかっていた。今度は私の番だと思った。
「バイクがいくらで売れるか、わかったら教えて」叫ぶみたいにして声に出していた。
 お兄ちゃんは、なにが起こったのか把握できずに狼狽えている。
「わかったら教えてって、なんで? おまえには関係のないことじゃん」
「あるわ。今度は私が」
 息が詰まった。思いはおばあちゃんに飛んでいた。
 待っててね、おばあちゃん。私、免許を取る。
「なに言ってんだ、おまえ」
「私がカワサキを乗り継ぐの」

 免許取得には思いのほか時間がかかった。学業の合間に資金を稼がなければならなくって、その工面がいちばんたいへんだった。それでも試練の時は乗り越えたのだ。
 これで、晴れて。
 2023年初夏。梅雨が明けたらそのタイミングで。
 待っていてね、おばあちゃん。今度は、私が行くよ。

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