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「買って済ます」から「工夫して使う」へ。

「飽食の時代を経験してきたからね」
 心底、バブルが体の隅々まで行き渡った時代を経験しておいてよかったと思った。戦後直後の民ではあるまいし「今日辛くても明日は少しよくなる、明後日はさらによくなる」と、未来にぶら下がった光明をホログラフを掴むみたいにして空まわりせずに済むようになる。
 欲は器いっぱいまで満たされると、「喉から手が出る」と言い表される手の出る喉が自然と閉じる。好物ゆえに毎日食卓に並べ食らい続けると、ある時ぱたっと箸が伸びなくなるように、好物も飽きると不要のものに変容する。猫が遊び飽きる姿と似ている。器は満たされると以降見向きもされなくなる。

「一度贅沢を覚えたドライバーは貧乏に逆走できないのだよ」と昭和色の濃い人が言っていた。渇望した末にやっとの思いで手に入れたものだから、囲い込み、盗られまいと必死に防御壁を組み上げるのだろう。手にしたものは、苦労の末の幸せなのだ。
 ということは、勝ち取った幸せとは、抑制されてきた欲望の結実だというのだろうか。いつだって思い込みという暴走が、その勘違いが、人心を惑わせる。

 だがもはや昭和な心を未だ引きずる人は化石となった。贅を尽くしたとまではいかないまでも、小皿をいくつも満たしてきたことで、かつて底なしに湧いてきた物欲は枯れた。無くなれば買って充てる時代は現実味を欠き、買うには届かぬ収入という現実が世界を覆っている。幸いなことに、空腹を満たす以上に腹に食い物を詰め込んできた時代を経験している。懐かしくある反面、あの満たしすぎれば苦しくなることを知った経験は、避けられるものならば避ける知恵を授けてくれた。

 名残もあって、海原のように広がる物欲の結果の数々である。買うに買ったり、集めに集めたりのもともと価値あるものでもない品々がメッキを剥がして足元狭しと転がっている。
 断捨離は、心を移す鏡だった。うつみ宮土理ばりのお姉さんが手にした『みんなに合わせてくださいな鏡』の向こうには、贅沢太りで身動きの取れなくなった醜いはずの自分が、これまで見たことのない美しさで微笑んでいた。鏡に映っているのは贅肉をそぎ落とし、ちゃっかり白い歯まで手に入れちゃた、自分とは思えない痩身の我が身。
 鏡を通して見たものは、ほかの誰でもなかった。何もかもを手に入れたつもりでも、探し求めていたものを見つけられずにいた自分。鏡は最後の最後に、追い求めていた本当の姿を見せつけてきた。
 鏡に向けての呪文は、口でこそみんなに合わせてちょうだいな、だったけど、真意はそこにはなかった。社会で演じてきたいろんな自分の1人であるこうありたかった自分▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼にだった。

 なんでもかんでも金で解決しようとするものは醜い。大金持ちではなく小金持ちにちょっと届かないところあたりをうろちょろしていただけだけど、自分にも醜さはあった。あの頃の自分は醜い。

 だけど今は違う。泉のように湧いてくるのは小金ではなく、労働で流す汗と頭をひねらざるをえないことで吹き出す知の汗となった。
 買えないものは我慢して使わない、という選択は最後の手段。あるものを工夫して使えるならば活用する。買えないから仕方なく工夫しているのではない。購入することが違うように思えるから。そこに、もったいない精神はない。搾り取るようにしてまで使い切ろうといった意識の高さは持ちあわせてはいないから。
 似たものがあるのに買い足してしまうとさらに収拾がつかなくなっていく。ただ、あるもので賄うと、使えるけれども少し不都合が生じたりもする。我慢して使い続けるか捨て去るかはその時の状況次第。
 このように物の使い方に対するスタンスを組み上げていくと、点数制で点を多く取ったほうに軍配を上げたくなってくる。右と左、さてどっちが効率化得点が高いでしょうか、といったようなもんである。だがそれは判断の迷宮に入り込んだ際に生じる、本質からの逃げ道。森を見失い樹木に焦点を当ててしまうと、たいがいは間違った結論に辿り着く。

 飽食は終わったのだ。使えるものがあるならば、手持ちのものから活用していく。直球ストレートでは役に立たなくても、工夫による代用が可能ならば、仕様を変更して使えるようにしていく。

 貧乏くさい、と昭和色の濃い人が余計な口を挟んできた。他人を批判したその人は、肘と膝のところにパッチをあてた服を着ていた。彼らの目は、贅沢を見上げている。誰よりも早く、少しでも多く、彼らは贅沢のゴール・テープを切りたいと切望していた。そんな欲の塊が、他者との比較定規で自分の今いる地点を確認したがるのは至極当然のことだった。貧乏臭さ加減を気にしていれば、貧乏臭さ定規を他人に当てにくる。彼は体から貧乏臭さを一掃したがっていた。
 だが今は昔と違って、定規は自分の内部で機能するようになっている。他人の目ほどいい加減んで嘘に満ちたものはない。自分の目を信じなければ、自分の足は踏み出せないのだ。
「買って済ます」かつての自分は魂を転生させ、今は大勢に流されることなく「工夫して使う」自分となった。心はいたって平静である。

 バブルの頃を生きた世代を平成生まれが冷静に観察している。彼らはバブルを経験したことはない。だが戦後の貧乏と希望が編み込まれた噴出させるべきエネルギーがまだ地中で練り込まれていた時代も知らない。出過ぎた釘も知らない代わりに、打つ釘さえ手にしていない序章も知らないのだ。
 飲めば領収書、移動はタクシー券、出張三昧、年に二度の長期休暇は海外でバケーションーー昭和世代に聞かせれば、懐かしさのあまり涙をちょちょぎらせる総天然色の思い出アルバム。対するそれらが我が事ではなかった平成世代は、心を揺らすことなく、鏡面の眼差しで石となった恐竜を観察するみたいに昭和を見つめている。

 ご馳走といえばすき焼き一択、娯楽は手動のパチンコで、醤油が切れれば隣家に走る。絢爛豪華で貴族になった気分に浸れるラブホテル、調子を崩しても叩けば直るカラーテレビ、お立ち台に、アッシーくん。ああ渚のシンドバッド。
 現代から過去を振り返ってみると、なんだかどれもが背伸びして手に入れたと思い込んでいた張子の虎に見える。鯛は腐っても鯛。うちに鯛に匹敵する価値あるものはあっただろうか。
 欲しがらなくなったのとは違う。購買意欲をそそる罠にハマらなくなっただけ。手持ちに鯛の価値を持つものはひとつもありゃしないけど、用途を見つけられるものは有効に使っていく。所有する物に価値は宿っちゃいないけど、見下していた物に向けて目線の高さを下げ同じ目線で見据えると、価値の色味が違って見えた。ただそれだけのことなんだ。


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