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踏み出し力。

 人には魅せられるものがある。でなければ夢は描けない。
 生き方に、考え方に、創り出したものに、そして人間性に。

 人は、人に恋をする。人の内面に恋をする。人の放つオーラに恋をする。ときに外観に恋することもあるけれど、見かけは永遠じゃない。なかには吉永小百合さんみたいに歳をとらない人もいるけれど、吉永小百合さんど真ん中世代ではない者にとって彼女は人間とは一線を画したアートにしか見えない。だから吉永小百合さん世代と違って双眸をハートにはできないのだけれども。

「人に興味を持つことはいいことだ」と教わったことがある。それが異性でも、同性にでも。恋愛に的を絞ったことを言っているのではない。

 見上げる姿は、天使で、清楚で、あるいは逞しく、もしくは崇高だったりする。そんな人に、ものに、人は魅せられる。

 魅せられたものに近づこうと歩を繰り出す。そうせずにはいられないことがある。ハーメルンの笛吹き男の笛に誘われるがごとく、体が踊り出してついていくみたいにして。
 だけど魅せられた夢は幻。憧れは砂漠の蜃気楼。不思議なもので、近づけば近づいた分だけ遠ざかっていく。手を伸ばせば伸ばした分だけ手が引かれていく。
 それでもいつか追いつく、きっと。そう信じて歩を繰り出す。千里の道も一歩から、と言うではないか。踏み入れた道が千里で一区切りをつけてくれていることを願わずにはいられない不安に駆られ、絶望の淵に立つことの可能性に一抹の恐怖を覚えながらも。
 
 不安は城壁。攻め入らせないためのものであると同時に、守備範囲の拡大を阻むものでもある。守備の要は、令嬢を深窓の奥にしまい込む鉄条網。だが孵化は殻を破ってこその成長である。前に進むためには、表皮に染みつき凝り固まった殻を内側から打ち砕かなければならない。孵化はいつだって、前進のためにある。
 破ればその先に、未知の世界が広がる。赤子は飼い葉桶をあとに、燦々と陽光が降り注ぐ草原に躍り出るのだ。
 
 草原に出たら、耳を澄ましてみるといい。
 燦々の音が聴こえないだろうか。
 文字で表せる形而上学的な韻ではないにせよ、そこに、耳に入り込んでくる音の粒子を察知できないだろうか。音はくぐもっており、パラフィンを通して伝わってくる間接的な糸電話の声かもしれない。それでも鼓膜を震わせ、肉声が内耳をくすぐってくる。吐息ほど色艶に染まったものでないにせよ。

 遠くにありて想うだけのものならば憧憬で終わるけれども、殻を破って近づけば、未知の端くれを視界の隅にとらえることくらいはできる。手は届かないかもしれないが、ふれるほどまで近づけるのではないか。

 とどまっていては、ちっとも先に進めない。憧れに空を仰ぐだけの人生より、虹の架け橋に足をかけ歩を繰り出す人生を。

 憧憬を抱えるだけで終えるより、足枷をはずし放り投げ、殻を破って原野に出る。
 惹かれるものがあるのなら、騙されてみてもいいじゃないか。やらぬよりやったほうがきっと後日、後悔の始末書書きに追われずに済む。

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