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罪悪感を抱えない生き方で行こう。

 甥っ子がいじめに遭って100円盗られたと泣いた。大事に持っていた100円玉だった。とくに記念発行された特別な100円玉ではなかったけれど、初めてもらった小遣いに欣喜し、肌身離さず、孵りもしないのに懐でずっと温めていた。
 盗ったのは保育園に通うひとつ上のクラスの、園児にしては巨漢の男の子だった。自慢して懐から取り出したのが運の尽き。体のデカさにものを言わせ、脅され奪われてしまった。
 奪った本人は「もらったものだかんね。わかったな」と甥が頷くまで睨みをきかせた。

 傍若無人園児の悪行は今に始まったことではなかった。大人になれば過去に起こったアクシデントから未来に何が起こり得るか予測し警戒できるが、幼少期は蛇に睨まれても震え上がらない。甥は嬉しさの絶頂から奈落に落とされた、飛んで火に入った夏の虫みたいなもんだった。
 これまでも似たような事件が起こり、都度、父兄がでしゃばったことがあった。ところが、いざ父兄同士が顔を突き合わせると、おおかたの場合、被告は自ら訴訟を取り下げることになる。巨漢男児の父親も子供同様見上げるほどの巨漢に加えて、度を超えた強面だった。おまけに堅気ではないと一目でわかるいでたちに震え上がった。大人になれば、蛇に睨まれればフリーズしたカエルになる。

 鼻息荒く勇んで臨んだはずの父兄がたちまち消沈し「子供のしたことですから」「あげたのかもしれませんね」と言葉を濁し、それでも最後に責任の所在ははっきりさせておきたくて「今後、こんなことがないように気をつけましょう」とやんわり釘を刺してから、「お互いに」と保険をかけた。

 叔父にあたる身分で余計な口出しをするべきではない。と腹の底で思いながらも……。強面が相手であろうとも、正義は貫かなければならないはずのものだから、出張ってもいい、ただ親でもない自分が首を突っ込むのは筋違いだよなあ、残念だなあとと虚勢を張って見せたなら、真に受けられ「ぜひに」と乞われて、取り繕うのにあたふたしてしまった。

 代わりに甥っ子に、自分自身の経験を話して聞かせることにした。自分もいじめっ子にお金を取られた経験があること、怖くて返せと言えなかったこと、ずっと悔しい思いを抱えて大人になって、それでも腑の落ちなさに悔しく思ってきたこと。
 そんな問題がある日、解決したこと。きっかけは特殊詐欺という悪いことを手伝った若者が逮捕された時に「犯罪グループから抜けるに抜けられなくなってしまった」と言ったのを聞いたことだった。逮捕された人は、ふつうの仕事をするつもりで求人に応募したわけさ。まさか悪いことの手伝いなんてさせられるなんてちっとも思っちゃいなかった。だれど脅されて、仕方なく詐欺の片棒を担いでしまったんだ。
 その時、これまでモヤモヤとしていたものがなんだったのか、やっと気づくことができた。世の中にはいろんな人がいて、悪いことをする人もいれば、悪いことをされる人もいる。根っから悪い人は、悪いことをしてスッキリするのかもしれない。でも、いい人が悪いことをすると、絶対にスッキリなんかしない。罪悪感ってやつにずっと囚われてしまう。罪悪感というのはね、悪いことをしてしまったことをずっと悔やむ気持ちのことだよ。
 親切にされたら親切を返すように、悪いことをされたら、誰かに悪いことをし返す、という方法も浮かんださ。だけど、やらなかった。これからもやるつもりはない。やってしまうと、おじさんの性格からいって、きっと一生罪悪感に苛まれてしまうから。
 悪いことを手伝ったり、悪いことをし返してこさなくて本当によかったと思う。罪悪感を抱えることのほうが、やられて悔しい思いをするよりずっと辛いからね。罪悪感を抱えるようなことにならなくてよかったと。
 いちばんいいのは、悪いことが世界から消えてなくなることなんだろうけどね。

 この説明で甥っ子の気持ちが和らいでくれればいいのだけれど。

 これでひと騒動に区切りがついた。と思っていた。ところが後日、甥っ子が100円返ってきたという。聞けば転園してきた園児が巨漢園児をコテンパンにやっつけて、それまでの悪事を絞り出すように吐露させたらしい。山椒は小粒でもピリリと辛い、そんな小柄な園児らしいが、相当なきかんぼうなのだろう。
 トランプはどこまで行ってもトランプだ。改心はしない。だけど映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』でトランプをモデルに描かれたビフは、完結編で暴君を地に貶めた。いつだって逆転劇は起こりうる。
 人生、捨てたものじゃない。甥っ子にとってもいいエンディングだったのではないだろうか。
 それもこれも。もしかして? まさか誰かがデロリアンを復活させて、過去を少し書き換えてきたんじゃないだろうね?

【暗雲立ち込めていたって、一条の光は必ずどこかで差している。】

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