ハリポタ5を再見して

先日、久しぶりに映画『ハリーポッターと不死鳥の騎士団』を再見した。なんだかんだ言ってもう5回目くらいだろうか。こちらの映画の見方も昔よりはだいぶ変わっていたのか、見ていたら思わず吹き出してしまったシーンがいくつかあった。例えばこんな場面。

本作の中心的人物であるアンブリッジ先生(簡単に言えばハリーたちにとって敵の側)と、ハリー側のマクゴナガル先生が階段上で言い争いをしている。はじめ2人は同じ段の上に立っている。マクゴナガルがアンブリッチの行う体罰について文句を言うと、アンブリッジはそれを制圧するような台詞を吐き、階段を一段上がる。すぐさま負けじとマクゴナガルも一段上がる。身長差的にアンブリッジの方が少し小さい。マクゴナガルは詰め寄るが、アンブリッジがここぞとばかりに「その発言、(私のバックについている)魔法省に背くつもり?」と言うと、言葉を返せなくなったマクゴナガルが自ら一段下がる。まさに「勝負あり」の瞬間だ。そして勝利を確信したアンブリッジはとどめにさらに一段上がる。

これは、人物間の力関係を視覚化した典型的なシーンであろう。見事と言ってもいいのかもしれないが、逆にここまでベタにやって、見ている方が(私のように)笑ってしまわないものかと思う。というか、そんな視点で見る客がいないものだと思っていなきゃこんな風にはできない。演出がベタというだけでなく、「上=優勢、下=劣勢」という発想もまたベタである。例えば松浦寿輝はその溝口健二論で、下から見上げる側に権力の軍配を見てとることで、この手の批評につきまといがちな紋切型を突破してみせたが、そのような進取の気性はこのシーンには感じられない。まあ、ないものねだりということか。

それにつけてもハリポタシリーズにはこの感じ、つまり観客(読者)をだいぶ低く見積もっているな、という感覚を随所で覚える。よく言えば非常に親切設計というか。アンブリッジは初めハリーの裁判のシーンで黒い服を着て出てくるのだが(いくつか嫌味な台詞を残す)、そのあとホグワーツで新任教師として紹介される時にはピンクの服を着ていて、ひょっとしたら同一人物だと気づけない観客もいるかもしれない。すると、そのことを察しましたとばかりにハリーが、ハーマイオニーに向かって「あいつ、魔法省にいたやつだ」と囁く。この台詞は、機能としては明らかに観客に向けて発せられたものだろう。つまり、観客が無用な取りこぼしで人物関係を見失わないための配慮だ。確かに子供向け映画としては必要なものだろう。

だが私はどうしても、なんだか作り手にナメられてる気もしてしまうのだ。映画を色々見るようになった今の目で批評している、というだけの理由ではない。そもそも私が最初に小説第一作を読んだ小3の時からそう感じていたのだ。『賢者の石』のラスト、ヴォルデモートが乗り移ったクィレル先生の台詞は、他の活字とは違った字体、震えたような字体で書かれていた。これを見て、夏目漱石もカフカもまだ知らないのに「小説ってきっとこういうもんじゃない!」と直感的に思ってしまったことを今でも覚えている。

字体の変化は原文でもきっとそうなのだろうが、もっと悪質なことを発見してしまった。『不死鳥の騎士団』で出てくる金髪の生徒ルーナ・ラブグッドの口調「〜なンだよ」を覚えている人も多いだろう。あれはどうやら原文では特に変な英語ではないらしいのだ。これなど、「私の訳文では不思議ちゃん感が十全に出せなかったのでそうしました(汗)」的な白旗宣言以外の何ものであろうか。そしてこれもまた、「こんぐらいやっても読者は気づかないっしょ」的な居直り精神のなせる技に思えてならない。

最後に、我々の想像力の傾向とその限界について述べておこう。中盤、教室でアンブリッジ監督のもと筆記試験を行うシーンがあるのだが、生徒がズラッと机に向かって羽根ペンで書きものをし、その視線の先には教卓があってアンブリッジがふんぞり返っている…これは普通の学校の試験の光景となんら変わらないではないか。魔法=想像力で進化させるべきなのは、個々の物(オブジェ)ではなくて物と物との関係の方ではないのか。iphoneが14から15に変わろうと、iphoneと手と目のあいだの関係は全く手つかずであるように(そしてそのことを誰も問おうとすらしない)、教室という近代が産み出した権力空間も、この映画では全く手つかずなまま保持されているというのが気になった。

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