げんきなおともだち

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最近の記事

錨について

〈序〉を拒むこと。これが最近のオブセッションである。 …といきなり始めても訳がわからないと思うが、まさにこの時の「訳がわからない」という感覚について語りたいのである。幕がゆっくりと開き、読者が丁寧に作品世界へと導き入れられてゆくようなそんな〈序〉を拒み、いきなり渦中へ引きずり込みたい。あるいは引きずり込まれたい。そんな欲望がある。 〈序〉はダサい。本の前書きほどかっこ悪いものはないのに、あまつさえそれが「皆さん、こんにちは。〇〇(著者)です。今日皆さんと一緒に考えたいのは…

    • NOのある人はかっこいい

      好みの主張が激しい人、とりわけ「これは嫌い」みたいなNOのある人は、きっと他人との軋轢が多いかもしれないが、少しかっこいいんじゃないか。 昔、名前は忘れたがとある建築家のインタビューを読んだ時に、彼は幼い頃から団地で育ち、その四角く等質的な空間に「住まわされている」と強く感じていたそうで、それが今の職業に就くきっかけになり…というような発言を読み、「仮に僕が同じような環境で育ったとして、僕はこんなふうな違和感を感じられるだろうか…」と思ってしまった。 「感じられる」というのが

      • レオス・カラックス

        レオス・カラックス監督映画の魅力は、その「つくり物性」にあるのではないか。 カラックスのすごさは、愛だとか恋だとか、そうした現実世界にもあるレベルの話ではなくて、現実の映し絵でありながらも決して現実に似ない箇所にこそある。例えば『ボーイミーツガール』でデヴィッド・ボウイの「When I live my dream」が流れる時、アレックスが路上で見かけるカップルはキスしているが、お立ち台みたいなところの上でクルクルと回っている。これは明らかに作り物だ。しかし、もしそのお立ち台ご

        • 大根演技論序説

          私たちがテレビや映画で俳優の演技を見て「うまいなぁ」と思うとき、それはほとんど「自然な演技だなぁ」ということを意味していると思う。「自然な」というのは、場に馴染んでいる、見ていて違和感を持たない、ということだ。 反対に、場に馴染まない、不自然な、つまり下手な演技のことを「大根演技」と言い、そうした演技をする人は「大根役者」と言われる。この言葉を肯定的な意味で用いた例は寡聞にして知らない。だが私は大根にこそ黄金の鉱脈があると思っている。もちろん「うまい演技」の素晴らしさを批判し

          ケリー・ライカート

          ケリー・ライカート監督映画の秘密は「距離感」にあると思う。人がもしライカート映画に「なんとなく雰囲気良いな」という印象を持っているとすれば、そのことを掘り下げて考えればきっとこの問題に逢着するはずだ。 まずはキャメラと被写体の距離感。ライカートは画角の配置のセンスがあることは誰でも認めるだろう。見ていて心地良いのだが、完全なる思考停止ともまた違う、今までに味わったことのない感覚。spotifyで放送されているラジオ「PARAKEET CINEMA CLASS」を聞いてその魅力

          ケリー・ライカート

          ハリポタ6を再見して

          先日の記事に引き続いて、第6作『ハリーポッターと謎のプリンス』を再見しました。 もう5周以上見ているので、さすがにベタに没入…というよりは、わりと距離をとって、ツッコミながら(もちろん楽しく)見ました。 前回、作り手(著者、訳者、監督陣…)に対して、ちょっとさすがに子どもを舐めてないか?という疑念を持ったと書きましたが、今作でもそれは感じました。それは例えばまずタイトルによく表れています。そう、「half-blood prince」は「謎のプリンス」でいいのか問題です。もちろ

          ハリポタ6を再見して

          ハリポタ5を再見して

          先日、久しぶりに映画『ハリーポッターと不死鳥の騎士団』を再見した。なんだかんだ言ってもう5回目くらいだろうか。こちらの映画の見方も昔よりはだいぶ変わっていたのか、見ていたら思わず吹き出してしまったシーンがいくつかあった。例えばこんな場面。 本作の中心的人物であるアンブリッジ先生(簡単に言えばハリーたちにとって敵の側)と、ハリー側のマクゴナガル先生が階段上で言い争いをしている。はじめ2人は同じ段の上に立っている。マクゴナガルがアンブリッチの行う体罰について文句を言うと、アンブ

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          ストローブ=ユイレの映画

          ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレ夫妻は、ストローブ=ユイレという連名でたくさんの映画を撮っている。ユイレは2006年に、そしてストローブも2022年に亡くなってしまった。そんな彼らが2006年に『あの彼らの出会い』という映画を撮った。チェザーレ・パヴェーゼというイタリアの作家が書いたテクストを、二人の人物が自然豊かな屋外で淡々と、イタリア語で読み上げる(一編が10分強、それが5セット描かれる)という、極めてミニマルな作りの映画だ。 この映画で我々は「あの彼ら」と

          ストローブ=ユイレの映画

          ジョン・レノン「イマジン」

          ジョン・レノンの「イマジン」を皆どういうふうに理解しているか、ちょっと聞いてみたい。 というのも、この間とある人がラジオで、他者に対する思いやりが足りない人に向かって「お前イマジン聴けよ!」と突っ込んでいたのを聞いて、「これは違うんじゃないか…」と疑問に思ったからだ。 「違う」とは言っても、私が最初に学校でイマジンのことを教わった時もおそらくこれと似た文脈で教わったから、それはある一定の人たちに見られる徴候的な理解の傾向なのではないかと思ったのだ(ちなみに私の通っていた学校

          ジョン・レノン「イマジン」

          やむにやまれぬ表現

          前回の記事「サンドウィッチマンの技巧2」で、伊達が時々言う同じ言葉の繰り返し(「1時間1時間」「1回1回」など)は、ネタの中で余計なところを切り詰めた結果たどりついた表現だ、というようなことを書いた。 私はこのような「やむにやまれぬ性」があるものだけを真に「表現」と呼びたいと思う。他の言葉でも別によかったんだけど…なんとなくこれで、といったようなものではなく。今日はそのような域に達していると思われた表現2例を紹介する。 ひとつ目は私が最も尊敬する人物の一人である酒井基樹さ

          やむにやまれぬ表現

          サンドウィッチマンの技巧2

          ここに書くのは、前回の記事よりもう少しマニアックな事柄だ。 「ピザ配達」のネタ(今回もまたネタ起こしは一言一句同じではなく大意) 1時間も配達が来ず、イライラ待ってる伊達 そこに富澤が到着「お待たせしました」 伊達「どうなってんだよ、1時間もかかってんじゃねーかよ」 富澤「すいません、迷っちゃって」 伊達「迷うって、道1本じゃねぇか」 富澤「そうじゃなくて、行くかどうかで迷っちゃって」 有名な冒頭のツカミのところだ。 この中で実は1箇所、意図的に伊達が実際に言っている台詞

          サンドウィッチマンの技巧2

          サンドウィッチマンの技巧1

          サンドウィッチマンのネタの「古典性」をあらためて強調したい。 その「古典性」とは、例えば「言い間違え」の多用に見られるある種のわかりやすさだったり、ネタの形式の真似しやすさといった要素を指す(もちろんその背後には、それをあの二人の声と間でやるということの真似できなさが潜んでいるのだが)。 今回は「観客の注意誘導」という観点から書いてみたい。 「深夜ラジオ」というコントで、伊達は深夜ラジオを聴きながら勉強している受験生。富澤はおかしなラジオパーソナリティという設定。 〔以下の引

          サンドウィッチマンの技巧1

          「代表作」とは何か

          映画批評家の廣瀬純は、『シネマの大義』504ページで次のようなことを言っている。 「すべての偉大な映画監督のフィルモグラフィには、同監督による他のすべての作品にも当てはまるようなタイトルをもつ作品が必ず含まれている。D・W・グリフィスの『国民の創生』、セルゲイ・エイゼンシュテインの『全線』、ジョン・フォードの『静かなる男』、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』、ルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』、オーソン・ウェルズの『フェイク』、

          「代表作」とは何か

          無題

          そうですね、その時僕は、深夜に偶然アイドルの番組を見ていたんですよ。シャワーから出てテレビをつけたら何気なくかかっていて、で、なんていうかな、あまりこうアイドルとかそういったものに興味はないんだけど、興味はないっていうか、イメージで言うと静謐さと対極にある喧騒っていうかな、まあ言葉遊び的に幻想って言ってもいいけれど、そういうものがあまり信仰の対象にはならないタチなものでね、まあそれはいいんだけど、その番組に手相の占い師の人が出てきて、選ばれて前に出てきた女の子の手に恐る恐る触

          ムーンチャイルド

          「僕のえがく人間というものは、その実存ではなく本質そのものなのですよ」と、人間に対して透徹した視線を持っているというよりかはむしろナルシシズムの塊のような、哲学的で下卑た物言いで話しかけてきたその画家は、私は公民館の駐車場に貼ってあった変なチラシに誘われて、絵画の蚤の市のようなイベントにやってきたのだった。 「よかったら、えがいてみせましょうか」その男は得意げに言うのだが、「かく」ではない「えがく」という発音に込められた芸術家的尊大さが鼻についた彼の、いやに背筋の伸びて、枯れ

          ムーンチャイルド

          身もふたもないものども

          小さな村で育った。その村に一組だけ、女の子の双子がいた。彼女たちはいつも、どこへ行くにもいっしょで、お互い顔を見つめ合わせては、にやつきながらヒソヒソ話をしていた。それがなんだかとても気味悪くて、あまり近寄らないようにしていた。 おおよそこういったことを話したあと、俺が何か質問しようかな、と思いかけた瞬間、おじいさんの目がついと細くなったので、とっさに口を閉ざすと、 (たっぷり間をとって)「……それがな、ある時から片方だけ背が伸び始めて、不揃いになってしまったのや」 寒の入り

          身もふたもないものども