『終の住処』のある一行をめぐって

磯崎憲一郎の芥川賞受賞作『終の住処』の文庫版60ページに記されている、とある一行がとても気になった。妻がある日を境に全く口を聞いてくれなくなり(結局それは11年続くのだが)、夫である「彼」がどうしてそういうことになってしまったのだろうとあれこれ考え、口を聞かなくなる直前に乗っていた遊園地の観覧車が何か怪しいのではないかと思う場面。そこでこう記される。

「あらゆる可能性に当たっておこうと観覧車の歴史まで調べてみた」。

ここを初めて読んだとき、声を出して笑うとともに、率直に「阿部和重じゃん!」と思ってしまった。私は大学の卒論で阿部和重論を書き、「阿部的存在」と名付けた、阿部作品特有の登場人物の行動や思考についてはかなり把握していたつもりだったので、まさにそれだという感じを受けた。もちろん単純な影響関係を云々したいわけではない。そもそも阿部に流れるものの源流がセルバンテスの『ドン・キホーテ』にあることは本人も公言しており、こういう登場人物の追い込み方(?)や展開の持っていき方には確かに『ドン・キホーテ』みがある。
蓮實重彦による見事な解説文も、全体の構造について精緻に読み解くことに主眼が置かれているので、「ここ、笑えない?」みたいな指摘は当然ない。言ってしまえば、批評の言語からはこぼれ落ちてしまいやすい箇所なのだろうか。しかしこういうところが小説を読む面白みのひとつだと私は思う。誰かこのクスッとした笑いの感覚を言い当てている人はいないものだろうか…

思い返せば小説における笑いについては随分昔から考えており、院生時代は横光利一の「御身」をキャッキャ言いながら読んだり、奥泉光といとうせいこうの「文芸漫談」シリーズも随分熱心に読んだ。…と思い出話ばかりしても仕方ないので、最近のことを書くと、坂口安吾の「FARCE」論はやはり面白いと思う。安吾は10代で読んだ時はその滋味がわからず、30歳になってマノエル・ド・オリヴェイラの映画『永遠の語らい』を観た瞬間突然「文学のふるさと」ってこれか! と閃き、以来少しずつ読んでいる。佐々木中も述べるように、安吾にとって「誰が」「誰を」突き放すかというのは常に曖昧な問題であるらしく、読者が突き放されるのか、作中人物が突き放されるのか、その辺りを考えていくと事態は難しくなるが、話を一気に磯崎まで戻すと、登場人物へのある種のいじめ方というか、針でつつくように可愛がるそのやり方はやはり独特のユーモアがあって、看過できないものである。

安吾について最後に一言だけ書いておくと、彼の小説の多くは「失敗作」などと言われることもあるらしい。佐々木はその見解を半分は退けつつ、半分は肯定しているようにも思われる(つまり、「失敗作だから読まなくていいんじゃなくて、なぜ失敗作をあれほど書いたのかをきちんと明らかにするべきだ」といったように)。私はそもそも作品を「成功/失敗」で測る考え方に納得がいかない。菊地成孔の松本人志論にも、「やろうとしていることはうまくいってる」とか「うまくいってないということすら作者は承知している」とか、「うまくいってる」話が頻出していた。私はこの「うまくいってる」話を批評言語から一切消し去って欲しいとすら思う。それは出されたものの結果を見ているだけで、批評とはそういう営みだと言われればそれまでだが、最も大事なのは作者がそれを書く(作る)プロセスそのものではないか。作品が成功してようが失敗してようが、手を動かして時間をかけてそれを作り上げたというプロセスの中にすべてがあるように思えるし、批評言語もその部分を掬い取れるようなものであってくれたらなと思うのであった。

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