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『アメリカに勝った国負けた国』第1章赴任一ヶ月 “何か”を感ずるベトナムの国民性


(1)交通の百年の歴史を一度に見る交差点

ハノイの街角

バイクの洪水とはかくなるものか、聞いては来ましたが目の当たりにすると、なるほど「洪水」と言う表現がよく当てはまります。まるで延々と続く青梅マラソンのスタート風景を見ているようです。いったい向こう岸に、どうして渡ったらよいのでしょう。彼らには、他人のミスも、車のトラブルも全く想定外です。流れこそが最も重要な交通ルールなのでしょう。しかしながらよく見ていると、暗黙の了解があるようです。目配せしながら意思表示を先にしたものが尊重される、究極の先入者優先の不文律があるようです。一方、バイクに取り囲まれるように走る車は、その機能、クラクション・パッシング・ハザードランプをフルに発揮してその存在感をアピールしています。その車も、なりふり構わぬ個性的なものから、最新鋭車まで種々雑多です。発動機のエンジンを付けた走りも音も可笑しな手造りトラック、旧ソ連邦の払い下げかと思われるような運転席を揺らしながら走るクラゲに似たトラック。めったには見かけないがベンツやトヨタクラウンのような高級車まで色とりどりです。また、こんなすごいラッシュのなかでも両端にいっぱい野菜や果物を括りつけ、天秤棒を担いで交差点をすいすいと行き交う姿も珍しくありません。まさに交通の100年の歴史を一遍に見ているようで、まるで動く博物館の態です。

(2)バイク万能と神風タクシー

町の歩道は、団欒の場であり、事務所机を持ち出した会計所でもあり、喫茶店やビヤホールのテラスでもあり、はたまた鉄工所の作業場でもある,生活スペースの一部のようです。。
このスペースの繋ぎ役は、ほとんどバイクが主役です。バイクは何でも運びます。人も、動物も、果物も、野菜も、家具も、電化製品も、4mもあろうかと言うような鉄骨も、大体のものはバイクで運んでしまいます。豚や、鶏や、食用にする犬をカゴに入れたり、日用雑貨や食料は、自分の背の高さまで荷台に積んで「洪水」の中をゆく、その妙技たるやしばし見とれるのみです。
この町で物乞いは見かけませんが、バイクタクシーの執拗な押し売りには閉口します。こいつだけには乗るまいと思っていましたが、先日やむなき事情につい、ともに風切る身となってしまいました。
タクシーの存在も大きい。今日乗ったタクシーなどは最たる例で、タンロン工業団地からハノイ市内に向かう約30分間のうち20分ぐらいクラクションを鳴らしっぱなしでしたし、その間さらにパッシング・ハザードありで、思わず座る位置を助手席の後ろから運転席の後ろに変えたほどです。日本では死語となった神風タクシーとはこんなんであったにでしょうか。
そう言えば、日本のタクシーは、運転席の後ろに強盗よけのガードがあり、上海は助手席からにも備えを固めていますが、こちらハノイは運転手をガードするようなものはありません。タクシーの運ちゃんは、ここでは、人民委員会に告ぐ特権階級かと見紛うばかりです。

(3)日本語から遠いが、何とかなるか

① 夕飯難民

私の泊まっているハノイホテルのG階に中華料理店があります。チャーハン以外なかなか旨いものにめぐり合えません。メニューでそれらしいのを選ぶのですが毎回ハズレです。メニューからの情報は、中国語と英語とが併記された品名表示と、それに値段(数字)です。値段は、質にもよりますが量の目安を考えるのに参考になります。大体一人前なら7万ドン(500円)まででしょうか、それ以上ですと一人では量が多すぎます。
同じものを頼むのも食世界が広がらないので、読解力を逞しくしてオーダーするのですが、気に入る食事にありつけません。「うまそうなのを喰ってるなあ」と目を隣の席に泳がせながら「今度こそは」とレジに向かうのです。(あぁ、英語のできぬ辛さよ!)
今日も同じようにレジまで来たら、すぐ近くにスペアーリブのコンガリ焼いたのを仲良く食べているカップルがいました。意を決して、レジの女の子に、カウンターにおいてあったメニューを手にとって開き、失礼にも食べているスペアーリブをカップルに気付かれないよう指差しながら「ホワーイ?」と言いましたら、意味を察して一生懸命探してくれました。ウエーターではないのでチョット時間がかかりましたが、やがて彼女の指が止まって弾ませた。なるほど「骨」と言う字が入っていて、スペアーリブっぽい品名でありました。よく見ると英語表示ではスペアーリブの単語が読み取れました。早速、明日挑戦してみよう。
 どうやら海外の単身赴任の大きな課題のひとつは、一番気を休めるはずの、楽しみなはずの夕食にあるようです。

② 電子辞書無事帰る

颯爽とハノイの名勝 ポアンキエム湖畔でタクシーを降りたまでは良かったのですが、「水上人形劇場は?」と思いつつ、後ろに手をやって電子辞書をタクシーに落としたことに気が付きました。
「どうしよう?」 「どうしようもないか?」 「3万2千円か、惜しいな」「ちょっとした生活の命綱やったでなぁ」「困ったなぁ」「ホテルに帰って話せば今ならどうだろう」「しかしどうやって説明する。辞書を無くした今」
そんなときにさっと目の前に現れたのが、例のバイクタクシーです。今となっては、「天の使い」是非も無し、後部座席に飛び乗り「ハノイホテルーッ」
ホテルに着いたらこの“雲助”め、5万ドン札(約360円)を見せてドンと吹っかけて来て(この距離は普通タクシーでも3~4万ドンが相場)「3万ドンにせい」と言ったが言うこときかず5万ドン札が無く、やむなく十万ドン札を渡すとそのまま立ち去ろうとしたので、先ほど彼が見せた5万ドン札をもぎ取ってホテルに駆け込みました。

早速、ボーイさんに日本語と英単語の交った言葉と、ゼスチャーで後ろのポケットを指しながらタクシーの中に電子辞書を落としたことを伝えた。先ほどホテルを出るとき、彼は、後ろのポケットを指しながら「コンピューター?」と聞いてきていて、自分は「ノー、ジス イズ ディクショナリー」、すかさず「ハウメニー」ときた「スリーハンドレッドアメリカドルとチョット」「おーっ」。そんな会話をしながらホテルを後にしていたのです。
そんな経緯もあり、大変残念そうな顔で同情してくれました。乗ったタクシー会社は、カウンターの記録帳を示しながら、「把握しているので問い合わせてみるから待ってくれ」と言っていることが理解できました。
その間でもそのボーイさんは,ゼスチャーよろしく「すられたのでは?」と問うて来ました。人ごみに行ったわけでなく、そんな感触も無かったので、それは絶対無いの表現として「ノー、ゼッタイノー」と答えました。
これから連絡を取るから「しばらく部屋で待っていてくれ。電話するから」と言ってくれました。部屋では、本も読む気にもなれずテレビをつけました。
それから紆余曲折があった後、無事電子辞書は、手元に返って来ました。日曜の茶番劇か幸運談というべきか、言葉の通じない不自由さ、まどろっこしさを身にしみて味わうとともに、この国の国民性にある“何か”の一端に触れたような気がした。
昼からは、念願の「水上人形劇」を安堵の気持ちで鑑賞させてもらいました。

(4)食事風景

タンロン工業団地仮事務所の食堂での昼食は、4人以上になると、銘々の皿に盛り合わせるのでなく、人数に応じて大皿で幾品か飯台に用意してあります。それをお互いが気にすることなく、突っつきあってお喋りをしながら戴くのです。それは、やがてベトナム人の無神経さや貧しさからでなく、かれら特有の親密感であり、連帯感を大事にする国民性だと理解出来てきます。
ベトナム料理は、塩や砂糖の味付けに頼ることは少なく、そのものの固有の味、辛さや、匂い ( 香り)を大切に味付けする。豊富な果物は、煮物にもよく使われています。
包丁があるのかと思うほど、肉でも、野菜でも、果物(皮のまま)でも大雑把で大胆な調理法です。
味は、日本食に馴れたものにとって、決して美味とは言い難いのですが、こちらの人は青や赤色のプラスチック製の腰掛けで長々とお喋りをしながら食べているのだから日本人がとやかく言う筋合いのものではありません。
蒸し暑い気候や、食材を考えればそうであろうと思うし、日本人は食に異常に繊細であろうかとも思います。
そう何かにつけ「日本人の性格に、神経質でせっかちな部分を弱くすればこうなるのでしょうか」。とにかく、こだわりは日本人よりは少ないようです。

(5)何か日本人が通ってきた様な

喧騒な町にあって、喧嘩とか言い争いは、今までに、眼にしたことがありません。
電子辞書の件もそうですし、底冷えのする緊張感は、ここベトナムには無く、かと言ってオーストラリアのような大陸的なおおらかさでもなく、どこか日本人と共有する感覚があるのを覚えます。
夜、外を歩いていても怖さは感じません。みんな歩道や木陰に出てアンダーシャツ一枚で夕涼みに縁台を持ち出したりして夜風と楽しむ雰囲気です。急き立てられるように動き回るバイクも降りればただの怠け者、例の青色の腰掛けに座ったまま離れません。

ハノイから少し内陸に入ると広大な田園風景となります。
さすが3期作の土地柄とあって、斑模様のグリーンの絨毯を敷き詰め実りを知らせるようなところあり、カモと共に家族総出で田植えの最中のところあり、農夫が黙々と水牛で田を起こしている所あり、緑に褐色がてんてんとする変化に富む心安らぐ風景は、いくつかの季節が凝縮されています。
道路近くの草原では、牛が日の暮れるのを惜しむようにせっせと草を食んでいます。

ハノイ近郊

業者との打ち合わせの帰り道、車窓には、採り入れの終わった田んぼのあちこちで藁を燃やす煙がたなびいていました。煙は夕日に照らされてモヤとなり、遠くのレンガ造りの部落を蜃気楼のように浮かび上がらせてもいました。
遠い昔、日本でもあった光景のような気がする。これが誰かが言っていた日本の原風景なのか。

(6)行き過ぎてしまった国、立ち止まってしまった国

敗戦により、いやがうえにも新しい血が注入された国と、戦勝により名誉と自主自立を得た国は、結果的には真逆にも、思惑よりも加速度が付きすぎ、通り過ぎてしまった国、勝ったがために一息入れ取り残されてしまった国という表現が出来るかとも思います。
それは、脇目も振らず走り続けた日本「西洋に追いつけ、追い越せ」を合言葉に一目散に駆けて来た結果、大きく通り過ぎてしまったのではないかと。
ひょっとして小泉さん(当時の首相)の靖国問題は決して外交問題でなく、日本人が忘れかけている大切な伝統、精神を関係国と軋轢を伴ってでも、身体を張って呼び覚まそうとしているように思えて来ます。この国ベトナムを見ていると、なぜかそういう見方も出来てくるのは私の飛躍なのかそれとも曲解なのか。
一方ベトナムは、はからずも今日 総務担当のミス,フオングさんが呟いた言葉が印象的です。朝の出勤途中バイクの群れの中の3人、4人乗りを横目で見やりながら、「それでも我々はアメリカに勝ちました」
そこには、誇りと慰めをない交ぜにした気持ちが滲んでいるように思えました。

一ヶ月ベトナム滞在記     2005年7月9日

後記:ベトナムは、日本で言う終戦(1945年)後もフランスとのインドシナ戦争(1954年)、その後アメリカとのいわゆるベトナム戦争(1975年)、更に中国との国境紛争・カンボジアへの介入と真に平和勝ち取ったのは、日本が高度成長を成し得た、1987年のことで、この時リン書記長がベトナム発展の施策「ドイモイ政策」を発表してからです。
従ってまだ戦乱に明け暮れた時代から20年と経ってないのです。
2005年7月21日


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