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『アメリカに勝った国負けた国』第2章 符合するベトナムの歴史、日本の歴史


(1)ベトナムの概要

ベトナムは、地図上ではインドシナ半島の一部であり、東南アジアとして近隣のラオス、カンボジア、タイといった国々(地域)からの影響や結びつきが強いように感じていましたが、実は、そのほとんどが中国との関係で成り立っている、と言っても過言ではないようです。
その原因のひとつには、ヒマラヤ・チベットの東から、やがてインドシナ半島の中央を南に縦断するチョンソン山脈に至る山岳地帯が壁となった地形上によるものと、二つ目には、やはり中国の国家形成が世界4大文明に数えられるほど早くから発達していて、しかも強固であったことがあげられます。
ベトナムは、中国の文明の畏敬の念を抱くとともに、それとは裏腹に反感意識、すなわち民族の自主自立の二面性を絶えずはらみつつ、発達を遂げたのです。
思ってみれば中国の南と東に位置するベトナムと朝鮮が同じような国運をたどるのは、単なる偶然か必然なのでしょうか。

ベトナムは、カンボジア・ラオスとは急峻なチョンソン山脈にて国を分けています。南北に細長く、その距離はおよそ1,650kmで、面積は33万平方km、国土の3/4が山岳地帯です。それでも北と南にホン河とメコン河の大河が広大な三角州台地を形成し、それぞれ独自の発展を遂げてきました。

日本と比較すると全長では北海道から下関までに匹敵し、面積は日本の90%(北海道を除いた分ぐらい)、人口は約8千万人、多民族国家ですがキン族が90%を占めています。
首都ハノイから経済の中心地であり最大の都市であるホーチミンまでは、列車で行くと1,750km、特急で30時間かかるとのことです。運賃はエアコン付きの上等で7千円ほど。往来は飛行機が中心でフライト時間は、2時間を要します。
気候は、ホーチミンを中心とする南部は、雨季(5~10月)、乾季(11~4月)と別れる熱帯気候であり、北部はなだらかな四季が存在します。冬は(最低気温が7~8℃まで下がる)湿気のせいか体温が奪われ気温の割には冷えるようです。
はるかチベット高原を源流にラオスとタイの国境を画し、カンボジアの中央を南北に縦断し、チョンソン山脈の切れたベトナムの南部に至り、南シナ海に流れ込むアジア有数の大河メコン川の延長は、実に4,500kmに及び巨大な三角州メコンデルタを形成しました。その中心都市と栄えたのが、ホーチミン市(旧サイゴン市)です。
もう一方の大河は、中国雲南省に端を発しトンキン湾にその色を染めるホン(紅)河です。この河も大量の土砂を下流に運び広大なデルタ地帯を形成していて、ハノイはその中心部にあります。


水上人形劇の人形を始めいろいろな表情を持った伝統人形

ホーチミンもハノイも肥沃な土地の恩恵を受けると同時に、洪水による畏怖の戦いでもあり、民族意識の中に色濃く反映されています。
水上人形劇は、文字通り舞台が大きな水槽の中ですが、寸劇の題材の舞台もほとんどが水上生活やそれにまつわる神話、伝説が多く、リズミカルな民俗音楽に乗せて、素朴な農民文化の表れとして演じ続けられています。
このほかにも絵画・版画・陶器・刺繍の芸術品・伝統工芸品、盆栽も盛んです。ベトナムの習慣風習に溶け込んだ仏教・儒教が形となってしているのかもしれません。

(2)第二次世界大戦後のベトナムと日本

日本が戦争に負けた年(自分が生まれた年)、1945年を基点に日本とベトナムは、どのような足取りを辿って今に至ったのか、自分なりに整理してみようと思います。

① 日本の高度成長の足跡

日本は、その勢いや精神文化に翳りが見えるものの、経済の面では全くの優等生と言われています。この経済の発展は、どこから来たのか考えてみる必要があります。
よく日本人は、勤勉で組織力があり、精神的にも細やかであると言われています。すなわち向上心とチームワークを重んじ、献身的な国民性がこの繁栄をもたらしたと。
自分は、決してそれを否定するものではないのですが、きっかけと言うか起爆となったのは、次に挙げる“外の力”による三つのステップを踏み、その都度、世界が目を見張るような進展を遂げたのだと思います。

  • 第一段階は、終戦の廃墟と化したこの地に、米軍(進駐軍)がもたらした復興政策です。進駐軍のマッカーサー司令官は、その強烈な個性と指導力で空襲により焦土と化したこの土地に、線を引き、絵を描いたのです。日本国民は、彼によって軍国主義から民主主義国家へと導かれ平和と自由を実感し、現在の発展への階に導かれたのです。その基本となったのが日本国憲法で、マッカーサーの主張が色濃く反映したものでした。

  • そこには、マッカーサーと昭和天皇の歴史的遭遇があったからとも言われています。彼は、昭和天皇の戦争責任を問わなかったことのみならず、憲法第一条で天皇制を継続したこと、第九条で戦争放棄の条項は、日本の民族性の尊重と近隣諸国への戦争責任の表れとして国際感情を和らげた役目を担い、日本の繁栄をもたらす大きな基礎を築きました。

第二段階は、朝鮮戦争(1950-53年)の勃発です。朝鮮半島は、俄(にわか)に顕在化した東西統治体制の軋轢にすっぽりと飲み込まれ、悲惨な同民族の闘争を余儀なくされました。一方、戦争に負けたはずの日本は、漁夫の利を得たかのように戦争景気で沸きました。韓国の人の日本に対する嫌悪感、この屈折した心理関係は、それ以前の歴史的背景(日本に支配されたと言う耐え難い屈辱)も相俟ってこのときの日本の立場が、あろうことか戦争に負けた国、さらに非道を行った国が、その国を踏み台にして潤うことなど到底許せるものでないと、合点行かないのが強く含まれているのでしょう。この動乱は治まったとはいえ、同じ民族は、ほぼ北緯38度線を境に北と南に分断され、五十数年経った今も未解決のままでいます。マッカーサーがいなかったら日本も朝鮮の悲劇が現実になっていたかもしれません。彼が日本を離れるときに言った「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」は、平凡な言葉ながらなぜか自分の心を捉えて離さないものがあります。
つくれ作れの掛け声で猫の手も借りたいくらいの忙しさであった「Made In Japan」は、このときから粗悪品の代名詞と呼ばれるようになりました。それでも日本は、このとき外貨不足を解消し、国力の回復を確かなものとしたのです。やはり現在の繁栄は朝鮮の人たちが犠牲なって築かれたことを否めなく、このことを日本人は強く自覚すべきでしょう。現在の若者にその責任はないと考えますが、過去にこのような事実があったことを如何に知らしめていくかは、我々の重要な課題です。

皇居 二重橋:進駐軍の司令官がマッカーサーでなかったら、今も皇居は存在しえただろうか

三段階は、経済・財政的に立ち直った日本の各企業が粗悪品の汚名を返上すべく多くの企業が欧米先進国と技術提携を結び、徹底的に生産技術の習得に励んだことにあります。そのころ日本人が好んだ言葉に「東洋一」、「世界一」があります。言わば世界一症候群的現象です。このころから西洋に追いつけ追い越せの合言葉のもと、一目散に駆け出したのです。いわば高度成長の幕開けです。先進国の科学や技術は、飢えた日本に波紋を描くように、瞬く間に広がったのです。欧米の科学技術が日本の精神と結びついたとき、発展の速度は瞬く間の速さでした。日本人は、理想を描いたり、自らを律し目標を設定することは苦手ですが、目標を与えられたときは素早く、団結心も強いものです。当時、巨大な“プロジェクトX”がいくつも立ち上がったのです。象徴的存在が東京タワーであり、新幹線の開通であり、イベントでは大阪万博、東京オリンピックだったでしょうか。
かくして日本は、戦後60年を以上3つの段階を経て、世界に名だたる経済大国となったのです。今でこそ、先進国とか日本製とか威張っていますが、かなりの部分は、海外の力を借りたのであり、指導のお陰なのです。

今や東京のシンボル、東京タワーも影が薄くなってきている
進化を続ける日本の新幹線(東京駅にて)        東京を出発する新幹線

② ベトナムの平和への足跡 

日本が昭和の太平記と浮かれ、まさに理想から踏み外しかけたころの1987年に、漸くにしてベトナムは、真の自由と平和を勝ち取ったのです。
その時、周囲を見渡せば、なんと多くの国々は、一歩も二歩も先に行ってしまっていたのです。国は勝てども、荒廃した国土だったのです。
日本はと言えば、すでにそのとき戦後40年を経過し「最早、戦後ではない」と国民全体が「中流意識」を自覚し、経済では世界をリードするまでに成長していたのです。
日本では終戦記念日、アジアの多くは解放記念日、ヨーロッパでは戦勝記念日と称される1945年、この地ベトナムでは、ホーチミンがベトナム民主共和国の独立を宣言した節目の年を迎えたに過ぎなかったのです。
ベトナムは、開放気分も束(つか)の間、フランスとのインドシナ戦争に突入し、再び苦難の道をたどり始めたのです。
日本では、復興の槌音が高くなってきたころの1954年、ベトナムはインドシナ半島のラオスと北ベトナムの国境の町ディエンビエンフーで、壮絶な戦いの末、フランス軍に勝利し、ジュネーブ協定が成立しました。
内容はここでも、東西の軋轢とイデオロギーのしのぎ合いの舞台となり、以来ベトナムは、北緯17度線を持って北と南に分断されたのです。

ディエンビエンフーへの補給作戦(『ベトナム・我が故郷』より)

一時、均衡による平和が実現したかに見えましたが、北側の統一と独立の意識は強く、その浸透に業を煮やしたアメリカは1962年、フランスにとって代わった形で南ベトナムに援助軍司令部をサイゴンに設置します。そして、南ベトナムの後方支援から全面支援と転換し、いわゆるベトナム戦争に突入して行くのです。
それは、高温多湿で鬱蒼と次から次へと茂る木々が、背骨にあたる2千m級の山々が連なる急峻なチョンソン山脈から雨は一気に駆け下り海に流れこむ川が、火炎放射器も、後年問題となった除草剤も,その時は、その効力を発揮し得なかったのか。ジレンマに陥ったアメリカ軍は、ドロ沼にいよいよ引きずり込まれ、北爆に踏み切り、戦線を拡大して行ったのです。           
ベトナム軍は、軽自動車に鉄板を貼り付け砲台を取り付けたような、これで人が乗れるのかと思うほど小さい戦車で、ジャングルの間を転々と移動し、空爆に耐えながらも南へ南へと、しぶとく浸透していったのです。

8~13世紀に栄えたチャンバ王国のミーソン遺跡(世界遺産)。空爆により大部分が破壊された。

なかでも、1968年のテト(旧正月)攻勢は、その後のベトナム戦争の流れを決定付けました。ベトナム人のテトに対する思い入れは大変なもので、それを迎えるに当たっては元旦一週間前の“オンコング、オンタオ”の儀式で身を清めることから始まり、テトの間中は、家長の家に一族郎党が集まり新年をみんなで祝うのです。
こんなときに攻撃をかけたべトコン(南ベトナム解放民族戦線の俗称)の並々ならぬ決意、熱意は、ベトコン側が多大な人的被害をこうむったにもかかわらず、返って団結心、使命感が浸透し、その後のベトナム戦争の行方を、大きく作用しました。

ホーチミンルートを行く支援物資と南ベトナム大統領府に入る戦車
(「ベトナム・我が故郷』より)

日本では、高度成長のステップを享受した1975年のころ、ベトナムは、ついに南北全土の統一を果たしました。
しかしまだ更に、西の隣国カンボジアへの内戦の介入(親中派のポル・ポト、シアヌークに対し、親ソ・親ベトナムのヘン・サムリンの対立)、そして、中国の国境侵攻と続き、真にベトナムが平和をかち得たのは、リン書記長が「ドイモイ」政策を発表し、カンボジアの政情が安定した1987年のことで、まだ20年と経っていないのです。

疲弊しきったはずのベトナム国民は、日本で言う終戦後も、度重なる戦闘を余儀なくされ、必死に国土を守ったのです。平和を勝ち取り、繁栄への道を踏み出したとは言え、その後も、最大支援国のソ連邦崩壊や、また周辺諸国との経済格差に苦難の道は続いているのです。
いまやソ連に変わって日本が最大の支援国となっていると聞きます。

タンロン橋:旧ソ連の援助で出来た二階建て橋、上段が車・バイク、下段が鉄道・歩道。

このように日本とベトナムの、日本で言う戦後60年の歩みは、斯くもはっきりと明暗を分けた足跡を辿ってきたのです。
従って、ベトナムを語るとき、この近年の歴史的事実を踏まえた上で、またそうなるまでの経緯を知って始めて語れるのであって、それを無視し現在の現象のみを捉えて判断すると、大変な間違いを引き起こすことになりかねないのです。
そこで、更に近代に至るまでの両国の歩みを訪ねてみることとします。

(3)ベトナムと日本の近代化の歩み

① フランス支配の歴史

産業革命前後、ヨーロッパ列強は、利権を求めアジア、アフリカに進出し、その歩みを加速させていました。中でもイギリスは、アヘン戦争(1840-42年)に象徴されるように、アジアの覇者中国への干渉を強め、当時の清の国力を削いで行きます。
清との安全保障関係にあり、有史以来中国の影響下にあったベトナムは、防衛線がすっかり手薄となり、永遠のライバルに触発されたフランスに支配されて行きます。
当時フランスは、ブルボン王朝から市民革命を経て、大きな歴史的転換期を迎えていました。
すなわち、フランスは、イギリスの版図の拡大に触発されたように、自国内の混乱による貧困、自主権の確立のために植民地政策を強化して行ったのです。
そんなフランス本国の状況のもと、まず最初にフランス軍は1858年に、ベトナム中部、ダナン(当時首都はダナン近くのフエにあった)に橋頭堡を築きます。
そして、1887年には、ベトナム・ラオス・カンボジアを完全植民地化し、インドシナ連邦を宣言したのです。
ベトナム最後の王朝となったグエン朝のハムギ帝は、反逆の罪ではるかアルジェリアに流刑(1888年)となりました。
それ以後ベトナムは、植民地としてのフランスの文明を移植されることとなります。特に文字の表記方法や町並みの造りにおいてフランス化が進められました。その象徴的な建造物がハノイでは、旧市街にあるオペラハウスやロンビエン橋でしょうか。

幾多の苦難のうえ建設され、更にその後も苦難の歴史の舞台となったロンビエン橋

一方で強制や弾圧により、やがて社会主義の思想を育み、ホーチミンの出現を創出する土壌が培われるのです。
フランスによる植民地政策が浸透する中、届いたニュースが日本とロシアの戦争で日本が勝ったという知らせです。
この日露戦争は、中国東北部や朝鮮半島の利権をめぐって勃発し、これに勝利した日本は朝鮮併合と言う自主権を奪った負の遺産を残した反面、この地ベトナムでは、ヨーロッパ列強に、アジア人が打ち勝ったことを証明したことで民族運動に勇気を与える要素も持っていました。
その後、1929年に起こった世界大恐慌は、本国の消費を植民地で賄う保護貿易で乗り切ろうとするフランスに対して、抗仏運動が燎原の野火のごとく広がり、1930年にはベトナム共産党が創立され、1941年のベトナム独立同盟(べトミン)創設へと発展して行き、1945年、主席となったホーチミンが第二次世界大戦の終結とともにベトナム民主共和国として独立を宣言するのです。

② 百年の歴史を刻むロンビエン橋

ベトナムの近代化の歩みは、まさにこの橋の歴史と重なると言っていいでしょう。
首都ハノイへの物流の強化・効率化を図るために、フランスは、このロンビエン橋を突貫工事で行い1902年に完成させました。この工事でベトナム人が過労と飢えにより、3千人の犠牲が出たと言われています。
ロンビエン橋は、港町ハイフォンからハノイへ、或いはハノイから中国に通ずる重要な物流の動脈です。
ハノイの中心を流れる大河、ホン河に架かるこの橋は、以来、近代ベトナムの苦難の歴史を深く刻み込んでいきます。
従って、要衝でもあり、アキレス腱ともなったこの橋は、延長は約1,700m、設計はあのエッフェル塔を造ったギュスターヴ・エッフェルが手によるものです。建築のプロに言わせると「その他の要素を度外視し力学的にもっとも頑丈に設計するとあのような形になるのでしょうね」と言わせる、その勇姿は奇っ怪で力強い。

老いたりとは言え威風堂々のロンビエン橋、今となってはハノイの人の貴重な遺産

この橋を通って至る、ハイフォンは北部きっての港町であり、ベトナム戦争では米軍が重要拠点と位置付け、北爆の標的となりました。当時、自分は、そのことをセンセーショナルに、全世界に報道されたことを生々しく記憶しています。
中国へは、橋を渡ったザーラム駅で2方向に分かれています。一方は北西に真っ直ぐ240km行ったところのラオカイで国境を跨ぎ、雲南省昆明、四川省成都へと続きます。他の一方は、北東へ165Km行ったところに国境の街ドンダンから中国に至ります。
幹線は景勝地の桂林を通り、湖北省武漢を経て北京へと続く遠大なルートです。
驚いたことに、ガイドブックを見ると ハノイ―昆明、ハノイ―北京間のダイヤは組まれています。ちなみにハノイ―北京間は、約3千Kmを実に45時間を要しながら、運賃が1万2千円ほどとのこと。
橋は、自慢のトラスがところどころで途切れています。長さにして橋の半分以上でしょうか無くなっています。それは、北爆により落とされたのだそうで、そのつど修理を重ね復旧されていますが原形のトラス橋とはなりませんでした。それ以後も老朽化が激しく今は、その存続が危ぶまれていると聞きます。

空爆に合いトラスが無い部分。この列車は、ハイフォン行きか、それとも中国国境の町か?

③ ロンビエン橋の風景

この地方では珍しく朝からからっと晴れ渡った日です。秋分の日を過ぎた、初めての日曜日、念願のロンビエン橋を渡りました。幾つもの三角形を鋼鉄で吊り橋状に組み合わせた形になっていて、近づくほどに威厳を感じる橋です。

ザーラムから金魚売が子供を待っている    ハノイ側ではバイクが生活物資を満載して

秋とはいえ、南国の太陽がさんさんとふりそそいでいます。額の汗をぬぐい、「今日は(ほぼ秋分の日)、地球規模から行って夜と昼の長さがほぼ一緒のはずだ」と励ましながら、慰めながら取り付け道路を登って行く。
進むにつれハノイ旧市の雑踏の喧騒や臭気がだんだんと遠くなり、代わって河風が気持ちよく吹き抜けて行き、大河の流れと広大な中州の畑の穏やかな風景が眼に入って来ます。
この橋は中央に鉄道、両側に二輪車用と歩道が備えられています。行き交う人はさまざま、珍しいところでは、片手に中州での成果、鳥の獲物をぶら下げ、空気銃を小脇に抱えて行く2人連れ、金魚を袋に入れザーラムから旧市に向かう自転車、手を振れば笑顔で応える半ズボンにTシャツ姿の若い西洋人女性、野菜を見事に積み上げせわしなく先を急ぐバイク、苦難の傷跡をまったく感じさせないロンビエン橋の往来です。

水上生活者の船がハノイ側の岸に寄り添うように並んでいる

下を覗き込むと、水上生活者の船が行き交い、その先には、ハノイ側の岸にもへばりつく様に船が並んで繫がれ、煙をたなびかせています。
中州には、広大な畑の隅に、生活の匂いを漂わせる小屋が数軒、番犬か食用犬か盛んに啼いています。
対岸のザーラム側に着くと、袂に練炭工場があり、よく見ると野積みされた真っ黒な石炭の天辺に黒犬が日向ぼっこを貪っていました。
「ふーん保護色か?」そう言えば少し上流の右岸(ハノイ側)に犬肉の高級レストランが軒を連ねていることを思い出した。ベトナムでは、犬肉が高級肉で何か祝い事があると、一族郎党が集まり、男衆が犬をさばいて宴会が行われるのです。 

鉱物資源は豊富で、なかでも石炭は練炭の原料として家庭や屋台の燃料となっています、

ホン河の水の色は、まさに赤土を溶かした色で、ちょうどわが故郷の川、長良川の上流が大雨に見舞われたときの色のようです。上流にあるタンロン橋(ソ連の援助でできた2階建ての橋)から眺めると湖のようですが、こうして近くで見ると、流れは意外と速い。
ひっきりなしに砂を満載にした船が下って行きます、この泥流では浚渫をひと時も怠れば土砂が堆積し、大雨でも降ればたちまちにして大洪水となろうことがよく分かります。

喫水線もすれすれに砂を満載した浚渫船が列を成して行き交うホン河

振り返ると轟音を響かせ列車が近づいてきた。
運転手は自慢げに汽笛を鳴らす。
用心深く歴史の重みを橋に刻みながら過ぎて行く。
平和を勝ち得た今のロンビエン橋の風景である。

④ 日本の近代化

ベトナムがヨーロッパ列強の侵食に悩まされていたころ、日本でも1853年、浦賀沖にペリーの黒船による開国を迫られていました。驚くべき兵器と技術を目の当りにした日本は、翌年『日米和親条約』を、さらに、1858年には『日米修好通商条約』をはじめイギリス・フランス・ロシア・オランダとそれぞれ『修好通商条約』の批准に至ります。いわゆる“安政の五箇国条約”と言われるものです。
このことにより、世情は騒擾となり、その鎮圧に、大老井伊直弼は、大鉈を振るいます。今に言う“安政の大獄”(開国反対派の粛清)が行われたのです。しかし、尊攘派は、そのまた翌年の1860年に“桜田門外の変(水戸藩士による井伊直弼の暗殺)”を起こし抵抗します。
国内は、混乱を極め、江戸幕府の権威は急速に失墜していきます。元寇(蒙古襲来)以来の外国による支配の危機に瀕したのです。
それでも日本は、独自の手で1867年の“大政奉還”と言う革命(明治維新)を迎えることとなりました。
その過程において、日本が欧米列強の植民地化されるのを拒んだ主な要因は、やはり四方を海に囲まれた島国であったこと、単民族国家であったことが最も大きな要因だったのでしょうか。

皇居 二重橋:ここから日本の中枢、霞ヶ関、国会議事堂は目と鼻の先

その後、日本は欧米列強を横目で推し量りながら“富国強兵”を推し進め、急速に国力を整備して行きます。
そして、日本はそれを試すかのように、朝鮮半島の利権をめぐり体質の弱っていた中国(清)と戦争を1894―95年に起こし(日清戦争)、これに勝利します。
自信を得た日本は、更なる軍事力の整備にかかり、重工業の起点、近代国家の試金石、八幡製鉄所を1901年に創業させました。
ベトナムではロンビエン橋の完成1年前です。
日清戦争から10年後の日本は、南下政策を採るロシアと、満州、朝鮮を巡って日露戦争を、さらに10年後の1914-18年には第1次世界大戦を戦い、軍国主義を強化して行きます。
資源の獲得や労働問題等・経済の不安定(世界大恐慌は1929年)、自由主義の台頭、めまぐるしく変わるヨーロッパの国々の版図や政情不安など波乱含みの要素を抱えつつ、やがて第二次大戦へと突き進むのです。

⑤ そのころのアメリカは

日本に開国を迫ったアメリカは、そのころ、分裂の危機に瀕していました。アメリカは1776年、イギリスから独立を果たし、ほぼ100年経過していましたが、南北間の問題が露呈し、分裂の危機に瀕していました。
アメリカ南部には、植民地時代から継続して、大勢の黒人がアフリカから強制的に連れてこられ、奴隷として使われていました。南部では綿花の栽培に多くの黒人が奴隷として使われていたのです。
北部では、イギリスからの独立運動から一貫して基本的人権と自由思想が芽生え、リンカーンが大統領に就任すると(1860年) “奴隷解放”を宣言しました。それにより南北の対立は決定的となり、南北戦争(1861―65年)に突入していたのです。
結果は、北側が辛くもこれに勝利し、理念が優り、自由の国の礎となりました。
豊富な資源と生産力で世界をリードするに至ったアメリカは、第一次世界大戦で傷ついたヨーロッパ経済を助け、強大な国家として形成されていきます。
しかし、その後ヨーロッパで立ち直った経済は、アメリカの生産が反って過剰となり、株価の暴落を招きます。これが世界大恐慌の原因となります。
世界大恐慌は、あっという間に世界を駆け巡り、それぞれの国々はその後、運命的な進路をとることとなります。
アメリカではこの時、時の大統領ルーズベルトが、テネシー川流域開発の公共事業の推進(雇用の安定策)、農作物の生産制限で物価の安定策、金融機関への資金援助等、ニューデール政策(1933年)を打ち出し大不況の乗り切りに成功します。ここにアメリカは、第二次世界大戦の指導的役割を果たすに相応しい国へと発展して行ったのです。
一方、第一次世界大戦に敗れたドイツ、オーストリア、イタリアは大恐慌が、戦争代償である賠償金支払いの負担の追い討ちをかけ、ムッソリ-ニやヒトラーのファッシズム独裁政治の台頭を許すこととなるのです。

近代社会は、このように互いの国に不安定要素(発展と侵略の脅威)を抱えつつ、思惑が絡み合い、それぞれの道を歩んできたのです。
さらに歴史を尋ねて、日本とベトナムの国家形成の原点を探って見ようと思います。
 

(4)日本とベトナムの建国の父

ハノイ旧市街の中心にある伝説の湖 ホアンキエム湖はハノイッ子の憩いの場

① 日本の建国の父は

日本では、縄文時代(1万年前から前4-3世紀)にかけて各地に小国が形成され、3世紀後半には大和国家が形成されるに至ります。
神話や伝説の世界から、大陸から文明がぼちぼち入り始め、国家としての組織が形作られ機能化するようになって行きます。やがて古墳時代、飛鳥時代へと着実に進歩していく中で、聖徳太子の出現は日本のその後に及ぼす道標ともなった大きさを持っているようです。
およそ世界の国々を見渡しても、建国以来、現在に至るまで一貫して天皇の世襲を許し、その時々の民衆が尊厳と忠誠を誓った国家は皆無ではないのでしょうか。
終戦のとき、マッカーサーの施策も、この歴史認識は当然頭に入っていたのでしょう。この国を立て直すのに、“天皇制を廃止したらあり得ない”と。
そこへ持って来て昭和天皇と会見した時の天皇の度量と2千年の重みを、彼は直接肌で感じとったのではないかと想像するのです。

この天皇制を不動のものに築いたのが、聖徳太子(574―622年)の功績なのでしょう。叔母に当たる推古天皇の摂政となった聖徳太子は、古代国家から、中国のような先進国家への飛躍と日本の独立国としての自覚を確立した最初で最も偉大な指導者でありました。
 その政策は、世襲制から才能主義、功績主義の制定(冠位十二階の制度)、仏教や儒教を取り入れた十七条憲法の制定をするとともに、荘厳な歴史的建造物法隆寺の建立、遣隋使を派遣し大陸との交流を深めたこと、その中で中国当時の隋の国王、煬帝に独立国としてのはっきりとした意思表示を行ったことの政策は日本の指針となるべきものでありました。
 以後日本は、南北朝時代の分裂はあったものの、時の権力が武家に渡ったものの天皇制を片時も離れることはなく現在に至っているのです。
穿った見方をすれば、徳川幕府の鎖国政策は,日本の発展を阻害したのでなく、大和民族の温存を図ったとも言えなくもないと思うのですが・・・・。

浜離宮:徳川時代の名園も高層ビルを借景としている?

② ベトナム建国の父

ハノイに都が築かれたのは、約千年に及ぶ中国(当時は宋の時代)の支配から脱した、B.C1010年李朝を興したリ-・コン・ウアン(リー・タイ・トー)がタンロン(昇龍・現ハノイ)に都を定めたのが最初と言われています。
ベトナムの歴史も日本同様古く、フン・ヴォン王のヴァンラン国(~前3世紀)神話や伝説の時代から始まり、ハイ・バー・チュン姉妹の物語(1世紀ごろ)やバ・チュウ夫人(3世紀)の独立闘争に象徴されるごとく、絶えず重石のごとくのしかかった中国の圧力をバネに、国家としての自立意識が芽生えていったのです。

リー・タイ・トー像:千年にわたり中国の支配から独立を果たしたベトナムの英雄

幼くして仏教を学びいろいろな階層の人望を集め皇帝に推挙されたリー・タイ・トーは、中国からの独立国としての態度を明確にし、さらに一方では、中国からの制度や文化を採りいれ国家としての体裁を整えていきます。
それ以後、具体的には、科挙制度(中国の官僚制度)の採用や、宗教の象徴と教育設備を持つ文廟(孔子廟)の建立は、リー・タイ・トーが精神を引き継いだものです。また、リー・タイ・トーが築いたリ王朝は215年続き、以後、チャン朝、グエン朝と引き継がれていきます。ベトナムの王朝時代は、フランスに1887年に植民地化されるまで、独立国家として存続しました。

③その他の日本とベトナムにかかわる史実

・阿部仲麻呂の活躍

遣唐使として派遣され、唐の玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂は、帰国の船団が嵐にあい難破し(753年)、ベトナムに漂着し、再び唐、西安に戻ったが代宗によって、安南都護府(ベトナム北部から広州あたりか?)の長に任命され、それを収めた後、西安に戻って望郷の念に駆られながら当地で客死とあります。(『ベトナムの歴史』小倉貞夫著より)
「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠ったあの仲麻呂は、ベトナムの地に足跡を残していました。

・日本への元寇(元の襲来)

チンギス・ハーンによって築かれたモンゴル帝国(1206年)は、その後フビライ・ハーンによって中国に進出し、宋を征服して元を建国しました。
征服欲が強く版図を日本にも求めた元は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書かれた“黄金の国”にも影響され、二度にわたって日本への進出を図ります。一度目が“文永の役”(1274年)、二度目が“弘安の役”(1281年)と呼ばれるものです。当時、鎌倉幕府の北条時宗は、近代的な武器と戦法で苦戦を強いられましたが、時の暴雨風に助けられて辛くも防衛に成功します。しかし、これを境に鎌倉幕府の力は衰えていくのです。

・ベトナムに襲来した元寇は

ベトナムは、1258年、1285年、1287年と3度にわたり、元から国土を執拗に蹂躙されています。しかし、それも元の衰退とともに終息しました。

神秘に包まれたもの静かなハロンの海も、時には現実に引き戻され、血の海と化したか

その後、とって代った明に1407~1425年に一時併合されたり、明を引き継いだ清には東南アジア各国や朝鮮半島などとともに朝貢国とされ、独立国とは言え絶えず中国の懐柔と圧力をもろに受けてきたのです。

このように日本とベトナムの歴史を比較してみると、多くの共通点を、特に中国との関係において、見出すことが出来ます。それが土着の風習や信仰とあいまって独自の文化を築き、今に至っているのです。それぞれが歩んだ史実は、客観的に見て(評論家的な言い方をすれば)遥かにベトナムの歴史のほうが試練の大きさ、多さで過酷であったと言えます。それは、ひとえに海に囲まれた日本と陸続きで国境を接する国の違いの故なのでしょう。

13世紀頃南蛮貿易港として栄えたホイアンの日本人町 左は往時を偲ばせる来遠橋(世界遺産)

一衣帯水の日本海という海は、進んだ中国の軍事力、支配力から守るのに何よりも増して強固な外堀でありましたし、文明の流入の上においても日本に良いものだけを選択する、あるいは日本古来の文明と融合できるものだけを採り入れる、フィルターの役割を果たしていました。

一方ベトナムは、陸続きのため、直接、強国中国の圧迫を受けることになります。それがためかベトナム民族は、粘り強さ、したたかさを身に付けていき、やがて侵略戦争(俗にいうベトナム戦争)にも打ち勝つ民族に育て上げ、念願の平和と祖国の統一を果たしました。
しかし、あまりに長き戦争の傷跡は深く、漸くにたどり着いたそこには、経済格差という現実でした。
これでは、まだまだ苦難の道が続きそうではないかと思いつつ、ベトナムの歴史を調べていて、出会ったのがファン・ボイ・チャウという人物でした。

舟で新年のお参りに香寺を目指す参拝者(ハノイ南60kmにある名刹)

2006年3月19日
ハノイホテルにて
篠田 泰之

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