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『アメリカに勝った国負けた国』第3章 「日本に楔(くさび)を打ったフアン・ボイ・チャウ」


(1)ベトナム紀行

① ベトナム人の心はどこから

この南国のバンランの花の香漂うキンマー通りの5月下旬朝

ハノイの街路樹は、4月になると、一斉に新旧の葉を入れ替えます。この地では、この季節になると、今までの霞を流したようなどんよりした景色から一転し、眠りから覚めたように、街路樹が活動を早めます。紫のバンランの花に混じって真っ赤な火焔樹(かえん樹)の花やホアデェップの黄色い花が天に競うように咲き誇り、いよいよこれから南国の長い夏が始まることを告げます。
外国であるベトナムに来て、当初抱いていた「順応できるだろうか。」の心配は、どうやら杞憂であったようです。
本当にこの地ベトナムでは、さわやかな人が多いと感心する一方で、この人たちはどのような育ち方をしてきたのか、どのような教育を受けてきたのか、と素朴な疑問が心の片隅に宿るようになっていました。
やはり顔立ちや性格が似ているからと、結果的には落ち着きそうですが、どうもそれだけの言葉で片付けるには申し訳ない“何か”がある気がします。

左:椰子の実を積み、バンラン並木を行くバイク    右は木陰で一局(必ず野次馬は付き物)

そんな心のゆとりが出来たわけなのでしょうか、改めて日本の現状が変に気になってきます。ベトナムに来て、かえって今の日本は大丈夫だろうかと思うに至った次第です。
60年もの間、戦争や紛争に巻き込まれたことはなく、国を守る兵役の義務もない一見平和そうに見える今の日本は、内部からじわじわと古木のように生気を蝕まれて来て、いつの間にかどこに居ても危険と隣りあわせで生活している気が、この地にいて強く感ずるのです。

② ファン・ボイ・チャウとの出会い

ベトナム生活に馴染み、そんな疑問を持ち始めたころ、歴史の詰まった中部地方を訪ねることとしました。
ハノイはノイバイ空港から1時間ほどのダナン空港に降り立ち、目指すは、最後の王朝のあった古都フエ、16世紀に栄えた日本人町ホイアン、それに中世の遺跡ミーソンを訪ねるものです。(ホイアンとミーソン遺跡は、第2章で写真と共に紹介したところです。)
この旅行で、フエの町を訪ね、ある博物館というにはこぢんまりとした祠のような記念館に足を踏み入れた時のことです。
敷地に一歩踏み入れると、大きな顔だけの像(冒頭の写真)が迎えてくれました。
その像からは、頑固で一家言そうで哲学的な表情が読み取れます。
その像の名は、この博物館の主人公ファン・ボイ・チャウという人物です。今は訪れる人もまばらな、このファン・ボイ・チャウ記念館は、ベトナム中部の古都フエの新市街地の木立に覆われた一角にあります。(今は、町中に移設されたようです。)
自分は、たまたまこの記念館に足を踏み入れたのですが、以来、この館の主人に心を惹かれることとなりました。
そこには、下記のような日本語で書かれた詩が展示されていたからです。

「老人がひとり 小船が一隻 楽しくない さびしくもない」
ファン・ボイ・チャウ  1937年

正直この地ベトナム(日本人町以外)で、日本語に出会おうとは、しかも結構に無常観、孤独感が漂うこの詩は、日本の情緒を漂わせています。その感慨もさることながら、それにしても、この地ベトナムに彼は、なぜわざわざ日本語の詩を残したのだろうか、の疑問も湧き上がってきました。
この時以来、この記念館の主人公とは、一体どんな人物なのか、感動とともに探求心をくすぐることになったのです。
その時では、深く尋ねることもいかんともしがたく、心を残しつつ写真を撮って帰ってから調べることにしました。

国を守り、指導した人はこんな表情がふさわしい。右は1937年に書いた彼の詩と絵

(2)革命家ファン・ボウ・チャウ

① ファン・ボイ・チャウの生い立ち

ファン・ボイ・チャウは、日本の明治維新の年、ベトナムではフランスの侵略がいよいよ風雲急を告げるころの1867年、北中部のゲアン省に生まれました。すぐ近くには23年後1890年、現在の建国の父ホー・チ・ミンが生まれていて同郷の仲です。ゲアン省は、気候や地形が過酷でかえって以前から、ベトナムの英雄を数多く出していると、ベトナムの人は教えてくれます。
また、その後に国を隔てて影響を受けたと思われる中国の孫文は、前の年の1866年に広東省マカオ近くの香山県(現中山県)の中農の子として生まれていますし、日本での一時よき助言者、犬養毅は12年遡って1855年に岡山県に生を受けています。
名家に生まれたチャウは、進士を目指し、33歳で科挙の郷試に合格し、高級官僚の道を歩むことになります(ベトナムでは中国の仕組みや思想がほとんどそのままの状態で移植されていて中国特有の科挙制度や宦官制度、儒教・仏教が普及し、漢字文化圏の一翼を担っていた)。
ときは、フランスがベトナムを含むインドシナ半島を着々と植民地として足場を固めつつある1900年のことです。このときフランスは、ベトナムの統治に当たって、当時支配していたグエン朝のハムギ帝は、アルジェリアに流刑にしたものの王政は温存し、その上に君臨することを選びます。
このことにより朝廷は、フランスに機嫌を伺うことにより、安泰であり、フランスは、民衆の反発が当面の支配者である王朝に向けられることで統治しやすいと言う訳です。
従って、それ以降のグエン朝はフランスの傀儡(かいらい)政権となり1945年まで続きます。

植民地足場固めの象徴は、エッフェルの設計による、1902年完成当時のロンビエン橋
左:グエン王朝宮殿に至る正門(午門=ごもん)、右:フランスと攻防も生々しい午門の矢玉の跡

進士として朝廷に登用されたチャウがそこで見たものは、グエン朝のフランスに媚いる堕落と新たに台頭した富裕層と官僚の癒着や腐敗でした。
清廉な彼がそんな世界を目の当たりにして、悶々とした日々をすごしていた1904(明治37)年のことです。

② 日露戦争に目覚めるチャウ

まさに電撃のごとく痛快なニュースが飛び込み、彼の心を揺さぶりました。それは、日本がロシアに勝利したと言う日露戦争の報でした。
日々、無力感を漂わせていた彼に、アジアでも西洋に立ち向かい、勝利する国があるということに深く感動し、闘志を呼び覚ましました。我らアジア人でも、独立を勝ち取ることができると。
早速、彼はその年に、グエン王朝初代嘉隆帝直系の子孫クォン・デ候(1882年生まれで初来日は24才)を会長にいただき「維新会」を、日本の明治維新になぞらえて組織します。そしてチャウは、翌1905年、日本に渡り、つてを頼って、当時進歩的な考えの大隈重信やそれに従う犬養毅らと会い、ベトナムに援助と助言を求めます。
その時、チャウが見た日本は(維新後38年を経過しいて)、軍事はおろか経済も国富政策による国内産業の目覚しい進展と、文化の面でも島崎藤村・夏目漱石・与謝野晶子の活躍や、インフラにおいては東海道線などがすでに1889年(明治23)に前線が開通していて進んだ日本の姿でした。チャウにとって、日本は、まばゆいばかり力強く輝いて見えたのです。

左:完成間近の八幡製鉄所(1901年)、右:全国各地の立てられた日露戦役の志魂碑

③ 19世紀初頭の日本の情勢

犬養毅がファン・ボイ・チャウに会ったのは、50歳のときで、チャウは38歳でした。当時日本は、チャウの見た目とは裏腹に、日露戦争に勝ったとは言え、莫大な戦費や更なる軍事費の拡大に加え、資本家の台頭により貧富の差が増大し、民衆は塗炭の苦しみの中にありました。
また政界では、西欧の憲法を模し議会制民主主義を中心とした政党による改革派に対し、天皇を家長としてた日本古来の制度を守ろうとする国粋主義者と激しく対立し、一方、社会的には、日清戦争以降台頭した資本家が政治をも動かす強力な財閥に成長し、それの対立軸として圧倒的多数の農民や労働者の自由民権運動の高まりなど、極端な対立軸を抱え混沌としていた時代でありました。
対外的にも、日清・日露の戦役に勝利を収めた日本は台湾や朝鮮半島を併合し欧米に習って植民地政策を強引に推し進めていきます。(主な事件として、1909年に朝鮮初代統監となった伊藤博文が安重根に射殺される事件が、1910年は幸徳秋水らがでっち上げられた大逆事件が起きている)
これら対立軸や波乱要素は、その後の1929年の世界大恐慌により、一気に頂点となり、1932年(昭和7)、当時首相だった犬養毅は、国粋主義者の凶弾に倒れる事件が勃発、俗にいう“5.15事件”です。
犬養毅は、きわめて清廉潔白な政治家の評価が高く、憲政の神様と言われたほどの人物で、中国で起こった孫文の革命運動(1911年 辛亥革命)を助けたり、ベトナムの革命指導者に対しても、ぎりぎりの援助を差し伸べていました。
しかし“5.15事件”以来、政党政治が完全に瓦解し、世界大恐慌の負担を引きずった日本は、欧米に倣った覇権主義で海外進出を進め、軍国主義の道をたどることになるのです。

 (3)東遊(ドンズー)運動とその挫折

ハノイ歴史博物館 植民地時代の囚人

① 日本に学ぶ東遊運動

それでも、ファン・ボイ・チャウが見た日本は、フランスに飲み込まれ徐々に自由を失ってゆく祖国ベトナムと違い、問題を抱えつつも自らの手で西洋に互角に渡り合い、あらゆることがドラスティックな展開を見せ、発展していく日本の現状を驚きの目で見ていたのです。
彼は自国との格差を痛感し、人材の育成こそ急務と、ベトナム青年の日本留学を本国に呼びかけたのです。
これが“東遊運動”の始まりです。これにより日本は、1908年(明治42)までに、200人のベトナム人青年の留学を引受けます。
しかし、日本は、折から1907年に、日仏同盟を結んでいて、留学生が帰国後、坑仏運動を展開するために、フランス政府が日本政府に対して留学生の取締りを要請して来たのです。
また、ベトナム本土でも、留学生の両親へ弾圧が加えられ、1909年ごろには、あえなく崩壊へと追いやられてしまいます。
そして、その年にチャウ自身も退去命令が下されるのです。

② 浅羽佐喜太郎との出会い

その時、帰るに帰れない留学生を抱え、途方にくれるチャウを救ったのは、浅羽佐喜太郎という人物でした。
彼は、1867年(慶応3)静岡県浅羽町梅山(現袋井市浅羽梅山)に、神官の子として生まれています。チャウとは奇しくも同年です。
彼は、東京帝国大学医学部を卒業した後、東京と浅羽のほぼ中間の神奈川県は国府津(小田原市?)に病院を経営していました。佐喜太郎は、篤志家で治療代を払えない人からはお金はとらなかったといわれています。

静岡県袋井市浅羽町梅山 常林寺境内記念碑案内板写す

チャウと佐喜太郎の接点は、チャウの同志のグエン・タイ・バットが行き倒れになったところを、佐喜太郎が彼を助けたことによるものです。
佐喜太郎は、ベトナム人留学生が退去命令の出たあと、何人かをその病院に匿ったり、1,700円もの大金を提供もしています。それは当時、浅羽小学校の校長の月給は18円と記されている(浅羽町史)ことから考えると相当な大金でした。
チャウは「公理を捨て、白人の横暴を助ける日本を悲しむ」と失望の念を、当時外相であった小村寿太郎(1855~1911年)に書き綴って日本を離れたのです。
日本を追われたチャウの活動拠点は、孫文が革命運動を展開する中国に移るのです。
その後8年経った1917年(大正6)のこと、チャウは佐喜太郎のことが忘れられず、ひそかに日本を訪れます。
しかし何ということか、佐喜太郎はこの世を去っていたのです。
チャウたちのことを「口外してはならない」と家族に告げ、彼らに心を残しつつ1910年、佐喜太郎43歳の生涯でした。
チャウは、恩に報いるために1918年、三度来日したのです。墓に詣でた彼は「日本人の義をベトナムの同胞に伝えたいので」と記念碑を建てることを提案します。
それを伝え聞いた当時の村長岡本節太郎は、佐喜太郎を村の誇りと、直ちに記念碑の建立を村民に呼びかけました。
こうして建てられた記念碑は、チャウの浅羽佐喜太郎に対する感謝の言葉が刻まれ、佐喜太郎の墓所 静岡県浅羽町梅山の常林寺に建立されることとなりました。

静岡県袋井市浅羽梅山 常林寺境内に屹立する紀念碑(左が表、右が裏面)

われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。
公は我らの志を憐れんで無償で援助してくださった。
思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。
蒼茫たる天を仰ぎ、海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、
訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

蒙空タリ古今、義ハ中外を蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。
我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年

大正七年(1918年)三月 越南光復会同人

ここで「越南光復会」というのは、中国でのベトナム人亡命者の活動組織で、中国の倒清運動をフランスに置き換えたものです。
それにしても、チャウの心の清らかさ信念の強さがひしひしと伝わってきます。失意のどん底に突き落とされた日本に対しての恨みよりも、そのとき受けた恩に、ここまでの行動をとらせるのです。
当時、チャウは、どこにいても厳しく監視されていました。にもかかわらず、あえて日本へ行って佐喜太郎にお礼がしたいと危険を顧みずやって来たのです。
後に発行された小冊子、浅羽佐喜太郎と東遊運動=浅羽佐喜太郎公記念碑建立85周年記念事業実行委員会=編集 安間幸甫氏によれば
『チャウは、革命の頂点にいるクォン・デ候の日常や生活に彼の書である「獄中記」や「自判」(ファン・ボイ・チャウ手記)では、ほとんど触れていません。フランス側に追求の根拠を与えることになる候の日本での所在や生活は、極力明らかにしたくなかったのであろう。クォン・デ候が佐喜太郎に世話になったこともそうであるが、佐喜太郎に迷惑がかかることも懸念したのであろう。浅羽佐喜太郎の記念碑は、このような真実を包み込んで立っているように思えるのである』
まさに、チャウは、日本に戒めと感謝の気持ちを、この記念碑という形で残して逝きました。

静岡県袋井市浅羽町梅山 常林寺境内記念碑案内板写す

③ 中国(清)の情勢と孫文の三民主義

ファン・ボイ・チャウは、日本へ来たとき、自分の立場と酷似する中国の活動家梁啓超を紹介され、意気投合し、日本の中枢を司る大隈重信、犬養毅と会うことが出来たのです。
当時中国(清)は、いよいよ末期を迎えていました。260年前に漢民族の明を滅ぼした女真族(満州族)により建国された清は、ことここに至って漢民族の興国運動や、実権を握って離さない西太后の専横に対する内部からの反乱(康有為率いる戊戌の変=1898年)、イギリスのアヘン戦争(1840~42年)に始まる西洋列強や日本による干渉により、内からも外からも崩壊寸前の逼迫した状態にありました。
光緒帝を戴き、西太后の失脚を狙った“戊戌の変”は、そのころ頭角を現してきた袁世凱の密告によって脆くも失敗に終わり、首謀者の康有為はシンガポールに、参謀といわれた梁啓超は、当時日本の首相であった大隈重信の手引きで日本に亡命したのです。

中国に渡ったチャウは、孫文の三民主義に出会います。彼は、康有為や梁啓超の清朝の正統を保持しつつ建て直しをはかる変法派(保皇派)に対し、孫文の清朝打倒による改革に、より強く影響受けていくようになります。
実際、チャウが孫文と合間見えたかどうかは資料がないので定かでありませんが、1905年から1919年にかけて、2人の行動は、多くの点でかぶっていて、会っている可能性が高いと言えます。もしそうでなくても少なくとも言えることは、国は違えど目指すものは同じ自主独立であり、互いに影響しあっていたものと思われます。
孫文の改革は、あくまで民衆側に立ったもので、根本的に国の制度を変えようとするものでした。それは、すでに「滅満興漢」を旗印に1851-64年に、洪秀全の太平天国運動などで、すでに原型が見られるものです。
それが孫文によって、明確に三民主義と掲げられたのです。
彼の三民主義とは、清朝の打倒と民族の統一の民族主義、民主主義と共和制を目指した民権主義、それに土地に対して平等な権利の民生主義を掲げていました。
これにチャウが共感し、勇気づけられたようです。
彼は、この三民主義に触発され、祖国の独立を勝ち取るために中国にいる亡命者を組織し、フランスの激しい追及に会いながらも、浙江省を中心に倒清革命運動の会の名前を採って“越南光復会”を立ち上げています。その会の活動は、軍票の発行や祖国の独立をうたう宣伝活動でしたが、中国の新たな独裁者袁世凱の弾圧に遭いはかばかしいものではありませんでした。
そして孫文も、1896年“重陽の蜂起”が失敗に終わり、追われる身となります。それでも彼は、ハワイ、やがて日本を拠点に世界遊説を繰り返し、活動を広めて行きます。そしてやがて辛亥革命(1911-12年)に繋げてゆくのです。
孫文もチャウと同じように、日本の進歩に目を見張り、アジアの模範国日本に活路を求めたのです。
しかし、日本政府は彼らの期待とは裏腹に、日英同盟を1902年に、そして日仏同盟を1907年に相次ぎ結び、西洋追随の道を歩むことになります。
このために、チャウは当時外相であった小村に「公理を捨て、白人の横暴を助ける日本を悲しむ」と失望の念を抱き日本を離れたことはすでに述べたところです。
また孫文も同じように、日本の行方に対して「西方覇道の鷹犬となるか、東方王道の干城(守り手)となるか」と、日本の軍国主義に対する懸念を示す一方で、アジアの範たる期待を抱いて、日本を去っていきます。
1914年(大正3)には第一次世界大戦があり、日本は中国への進出を露骨な形で表すようになります。
チャウと孫文の懸念と期待は、懸念が現実となり失望のうちに消えていきます。
孫文は「革命いまだ成功せず」の言葉を残して1925年3月、北京で亡くなります。享年59でした。
一方チャウは、孫文が亡くなった同じ年の11月23日、上海でフランス官憲に逮捕され、ハノイに護送されます。ハノイの軍事裁判で即刻終身刑を言い渡されましたが、国内外の世論に押されて12月4日には釈放され、フエの自宅に軟禁されます。そして1940年10月、不遇のうち、例の日本語の詩を残して、自宅でひっそりと生涯を閉じました。享年72でした。

晩年チャウが愛したと思われる風景 ティエンムー寺からフォーン川を望む

④  その後のベトナム

そして、ホー・チ・ミン(1890~1969年)がベトナム独立同盟(ベトミン)を創設したのは、チャウが亡くなった次の年の1941年のことでした。
彼は、フランス、ロシアで共産党の思想とシステムを習得し、中国経由で帰国します。
以後ベトナムは、祖国独立の夢を胸に抱いたホー・チ・ミンのもとに、その活動を展開していきます。
1945~1954年のインドシナ戦争(フランスからの独立戦争)と1962~1975年のベトナム戦争(南北統一のためのアメリカとの戦い)です。さらにホー・チ・ミンの死後もなお、1977~1989年の隣国カンボジアへの軍事介入、中越戦争1979年と、実にフランスに自治権を奪われてから、およそ百年有余にわたる長い長い戦いの歴史だったのです。

放置された米軍戦車(トゥアティエン・フエ省博物館)

ベトナムが欧米や中国の干渉から独立を勝ち取った力強さの一方で、そのとき見た現実は、故国の荒廃であり、他国との格差でありました。
「ドイモイ政策」に活路を見出し、開発復興は急いで進められていますが、その差は歴然としていました。
そして、この歴然たる格差に対して、その改革是正は、社会構造のゆがみや外資資本の急激な流入を招き、危険もはらんでいます。
チャウが去ってからほぼ一世紀。今、再び日本はベトナムへ支援の立場にあり、怒涛のごとく資本が流れ、技術の移転が進んでいます。これが日本だけの利益のためになされるのであれば百年前の教訓が生かされないことになります。
そのような考えに至ったとき、ファン・ボイ・チャウが日本に残した佐喜太郎の記念碑がどのような意味を持って屹立しているのか明確なメッセージを残していると思うのです。
日本は、ヨーロッパのロシアとの戦争で勝利した国と、衝撃的に知り日本に活路を求めて来た革命家ファン・ボイ・チャウ、日本の新たな潮流に巻き込まれ幻滅して中国に去ったそのときは、図らずも浅羽佐喜太郎の義侠を浮き彫りにしました。
1人でも多くの人がこのチャウが残した碑を知り、心を受け継ぐことを願うものです。すなわち彼は、日本のこの地に日越友好の楔を打ち込んでいったのです。

お寺の境内で集うハノイの人達

2006年6月13日
ハノイホテルにて
篠田 泰之

 あとがき

このベトナム滞在記『アメリカに勝った国負けた国』読んで頂き有難うございました。
もともとこのベトナム滞在記は、私的な作品であり、世に問うようなものではないと思っていましたが、昨今の日越交流が盛んになるにつれ、また、周辺諸国の事情を見渡した時、日本の良きパートナーとして最適な国であると強く心を突き動かすものがあり、かれこれ17年前を振り返り、少々手を加え発表させていただくこととしました。

日越の最初の交流は、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の友情が始まりです。
それが日越交流が盛んになる割には、最初にその関係を築いた二人の逸話が比例して周知されていないことに、かねてより物足りなさを感じてもいました。
それが最近、ベトナム人に関係するニュースを見て、ささやかならこのベトナム滞在記がお役に立てるのではないかと思うに至ったと言う訳です。

こうして改めて思うことは、何気なしに立ち寄ったファン・ボイ・チャウ記念館でした。そこで見た日本語で書かれた詩が目にとまり、ここまで導かれたことを今更ながら感慨深く思うところです。

「老人がひとり 小船が一隻 楽しくない さびしくもない」
ファン・ボイ・チャウ  1937年

それにしてもチャウは、この詩に、どんな思いを込めていたのでしょう。
チャウは、ただ単に自らの足跡を振り返って、その心境を詠んだものなのか、それとも何かに訴える意味が込められているものなのか、自分なりの答えを、未だ見付けることが出来ずにいます。
ただ、彼が日本語で書いているということは、日本人に向けたメッセージであるようにも思うのですが・・・・。

ハノイの街を彩る火焔樹(かえんじゅ)の花

記:2023年8月21日


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