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解説『駈込み訴え』~ガチ恋そして反転アンチへの道~


太宰治『駈込み訴え』とは

1940年に出版されたイエス・キリストの弟子・ユダの心情を綴った小説。ユダの喜怒哀楽全てがジェットコースターのように織り交ぜられるので、朗読すると疲労感が半端ない作品でもある。



『駈込み訴え』あらすじ

○申し上げます。申し上げます。
旦那と呼ばれる者の前に訪れる、ある1人の男。
男は興奮した様子で「あの人」についての告発をはじめた。「あの人」が如何に自分を憎み、意地悪をしてきたのか、自分がどれほど「あの人」を献身的に愛してきたのか……目まぐるしく回る情緒の末、彼は「あの人」の居場所を告白する。

御伽的作品解説

御伽が朗読した作品を配信者という切り口で解説していく記念すべき第1回目は太宰治の『駈込み訴え』。『駈込み訴え』は商人であるユダが主であり師のイエスへの、愛情から憎悪に遷移する複雑な心情が描かれている。これを配信というフィルターを通して眺めてみると、意外に身近な事として理解しやすいのではないだろうか。

【1】ユダとイエス~リスナーと配信者

「推し」という言葉が世間に定着して久しい。その推しに対する活動、いわゆる推し活のスタイルは実に様々なカタチがある。

配信をしたり視聴したりしていると時折、その配信者を崇拝し信仰としか思えないくらいの熱狂的なリスナーに出会うときがある。これをガチ勢という。
また、初配信の頃からフォローやチャンネル登録などをしていたリスナーは古参と呼ばれる。
ときには恋慕の情を抱くリスナーさんも現われることもあり、自他ともにガチ恋と称される。

ガチ勢であり古参である者……これがナザレのイエスに付き従う12使徒だと考えてみると、イスカリオテのユダは古参ガチ恋リスナーであると見ることが出来よう。

【2】ガチ恋は悪か

結論から言うとガチ恋は悪ではない。
配信者からするとガチ勢と共に存外、ありがたい存在である。ただし強い恋慕の情は人を狂おしく豹変させてゆく。
いわゆる厄介化である。

ガチ恋がやがて厄介ガチ恋になるとその対象に対して過剰に介入しようとする傾向があり、同時に他のリスナーを見下し、自分が如何にその対象にとってあたかも特別な存在であるかのように振る舞いはじめていく……

自分以外の弟子たちを馬鹿なやつと見下している。
イエスに布教活動をやめて自分と一緒に暮らしたいと夢見ている……etc

作中のユダこそ、まさにイエスに対する厄介ガチ恋にほかならないのではなかろうか。

【3】物語の終焉~愛憎の相転移

多くの場合、そのガチ恋は成就することなく終わる。
圧倒的低確率ではあるものの、中には成就する例も存在するのだが、これがガチ恋をより過剰に過激に向かわせる要因なのだろう。

Vの世界だけに限らないが、対象に受け入れられなかったガチ恋はどこに向かうのか。

その行き着く先にあるもの……それが反転アンチと呼ばれる強烈なアンチテーゼへの相転移である。

ガチ恋は【2】で触れたように、他者を見下す傾向が強いが故、自分こそが支えてきた原動力であり、対象にとって唯一無二の存在であるという自負心が自身のレゾンデートルであった……それが相手に拒絶されたら……

価値観の喪失は人の精神活動に大きく作用する。
ある者は無気力になり、ある者は新たな価値観の創出に一歩前に踏み出すだろう。
しかし、そこに留まり続ける者もいる。
「可愛さ余って憎さ百倍」
今までと同じように愛情を持ちながら、と同時に激しい憎悪の念が沸き起こる。そんなアンビバレントな状態に陥った者の末路が反転アンチである。
反転アンチは所構わず、かつて自分の愛した者に対する誹謗中傷を繰り返していく……その先にあるものは破滅しかないのを知りながら……

ユダはイエスに対して、かつて好きだった部分を否定し中傷し、果ては処刑に追い込んでゆくが、未だに根強く残る愛情の断片も見え隠れする。
まさに厄介ガチ恋反転アンチ、そのものの姿がここにあるのだ。

まとめ

太宰治『駈込み訴え』は厄介ガチ恋リスナーによる反転アンチになっていく心情を綴った物語である。

御伽yutaKa






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