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言葉はいつもドメスティック。

むかし、こんなことがあった。

「そこから秋の紅葉は見えますか?」。NHKの番組で、アナウンサーが宇宙飛行士に向かって質問をした。秋と言っていたので、たぶん11月ごろだったと思う。そのときわたしはマレーシアに住んでいて、クーラーの効いた部屋でNHKを見ていた。常夏のマレーシアは、11月でも暑いのだ。

なので、その質問を聞いたときは、思わずテレビに向かってつっこんだ。おいおい、宇宙から見る地球に四季は無いでしょう。日本が秋だからといって世界中が秋ではないし、ましてや宇宙にいる人にそんなドメスティックな質問をするなんて。それまでもなんとなく感じていた“ザ・日本的”感覚と国際感覚のズレを象徴するようなできごとで、同じ日本人としてあきれるやら悲しいやら、だった。


最近のSNSには、海外から見た日本への意見があふれている。平和ぼけ、危機感がない、政府が無能、外国はこうなのに日本はうんぬんと、ほぼすべてマイナスの評価だ。あぁ、、あのときのわたしの感情によく似ている。あのときわたしがSNSに参加していたら、きっと同じ趣旨の発言をたくさんしただろう。


で、日本に帰国して10年経った今もう一度、あのアナウンサーの質問を思い返してみた。

すると、ちっとも腹が立たないのだ。たしかに宇宙と秋ってどうかな、とは思うけど、そんなに目くじらを立てることじゃないと思う。なぜだ? 答えはひとつ、わたしが日本に染まったからだ。


そうなのだ。人は誰しも、住んでいる国や所属しているコミュニティ、ふだん接している仲間や家族など、さまざまなものに影響をうけて生きている。だから環境が変われば、考え方や習慣、夢や希望だって変化する。

今は技術の進歩のおかげで、物理的な距離があっても、いろんなものが瞬時に届くようになった。Webで記事を読めば、世界各地の情報やそこで生きている人々の気持ちを知ることができる。世界はむかしに比べてずっと近くなっている。それはとても楽しいことでうれしいことだ。

ところが、あまりにも近くなったものだから、ときおり相手が自分と同じだと錯覚してしまう。もしくは相手をすぐに理解したくて、なにかしらの手っとり方法、つまり、共通ルールや共通認識を求めてしまう。それがきっと、グローバルとか、国際感覚とかよばれるものなんじゃないかなと思う。これらはもっともらしい言葉だけど、相手をちゃんと理解することにはちっとも役に立たない。なぜなら、この世の中に起こることすべてが、もともとはドメスティックなものだから。


そもそも “言語”というのは、それ自体がとてもドメスティックな性質をもっていると思う。その人の背景にある文化を記号にしたのが言語といってもいいかもしれない。たとえば、文字を視覚化した言語の「手話」は、アメリカと日本ではまったく違う。「食べる」という手話は、アメリカ手話ではハンバーガーをほおばっているしぐさになり、日本手話では箸で食べものを持つしぐさになるように。だから、人がコミュニケーションをとるとき、言語を使っている時点で、かなり個人的(その人の文化背景に影響をうけている)な手段を用いていることになる。だからこそ、言葉によるコミュニケーションは尊いし、価値があるのではないかな。文化を知ることにつながるからね。

じゃ、これからの国際社会(あ、使っちゃった)を生きるためにはどうすればいいのかということを考えてみた。

たぶんこれからは、ドメスティックなわたしとドメスティックなあなたと、それを俯瞰するわたしたちという3つの意識を同時に動かしていくような世界になっていくんだと思う。言い換えれば、地域で暮らすわたしと別の地域で暮らすあなたと世界にともにいるわたしたち。個のわたしと集のなかにいるわたしたち。

ガソリンと電気モーターの2つを動かしているハイブリッド車のような感じかな。必要な場面によって言語を使い分けるバイリンガルのような感じかも。どっちも大事で、お互いを補っていくのがいいと思う。

そして、世界の共通意識やグローバル感覚というのを求めるなら、言語ではないものがいいと思う。音楽、踊り、絵画のようなアートに近いものがいい。綺麗とか、美しいとか、おいしい、もいいかもしれない。


正直、海外に住む友人たちから日本のことをあれこれ言われると、日本人としてはへこむ。でもそれと同時に、伝えてくれたことで、多面的に状況を把握することができてありがたいとも思う。やっぱり何事も複数の視点は大事だ。

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フィリピンのお菓子オタップ。おみやげでいただきました。かためのパイのような、カリントウのような、素朴なお菓子。甘い砂糖がたっぷりまぶしてあって、緑茶によく合いました。

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