真剣乱舞「祭」2018―「この国の祭り」

この記事は、ミュージカル刀剣乱舞 真剣乱舞祭2018で行われた「祭」に対する批判です。らぶフェス2018は、刀剣乱舞の牛蒡で法事する行為だったと思っています(祭だけに)。
メディアミックス含め、二次創作ってそうじゃないでしょ。

ミュージカル刀剣乱舞 真剣乱舞祭2018

「この国の祭りとは、懐が深い」
 真剣乱舞祭(通称「らぶフェス」)2018の最後に、巴形薙刀が辿りつく言葉だ。
 らぶフェス2018は、刀剣男士たちが西軍と東軍の二方に分かれ、どちらの祭がより楽しいか、行司役の巴形薙刀の前でパフォーマンスして見せるという筋書きになっている。
 西からは祇園祭、阿波踊り、よさこい祭り。東からはねぶた祭、雪まつり、YOSAKOIソーラン。山車が出て、ねぶたが出て、歌って踊って、最後は東西のよさこい踊りが交互にくり出される。
 このお祭り展覧会のごときパフォーマンスの間、わたしはずっと、どことなく居心地が悪かった。最初はわたし自身の、「どの地域文化にも属していない」という個人的感覚、ソーラン節の合いの手すら入れられない疎外感(転校のタイミングが悪かったのか、そういう学校だったのかはわからないが、三つも小学校に通ってどこでもソーラン節を習ったことがない)で、「ついていけない」気分になっているのかもしれないと思った。

 東西の祭りを楽しんだ巴形薙刀だが、まだ勝敗をつけることができない。まだ何か、祭りを理解するには足りない。冒頭で「これしか弔い方を知らないのだ」と死者を弔って舞っていた巴形薙刀は、ひとりでまた、舞を始める。
 そこへ、死んだはずの人間たち、そして死んだはずの時間遡行軍たちが現れる。彼らは北をめざしていたはずが、道に迷ってしまったのだという。巴形薙刀は、此岸からの祈りだけではなく、彼岸からの祈りもあって初めて祭りが成立するのだと悟る。
 ここにおいて真剣乱舞祭2018は、鎮魂のための祭りであることがはっきりと示される。それがとても、納得いかない。わたしはこの会場に何をしに来たのか? 死者を弔うためか? 違う、ミュージカル刀剣乱舞の刀剣男士たちに会いに来たのだ。
 死者を弔うという行為は、たとえその言葉をどれほど避けようとしても、宗教の問題だ。わたしはらぶフェス2018の会場で、問答無用で宗教儀礼に組み込まれたのだ。誰にもわかるはずのない死者の意思を「生者のために祈っている」とみなそうとするところに、その宗教性は端的に表れている(らぶフェス2018において、死者たちが刀剣男士と直接言葉を交わすことはない、したがってこの「発見」は、ミュージカル刀剣乱舞内での個々の死者たちの意思を離れて一般化される)。
 伝統文化と宗教を、完全に切り離すことはできない。ましてや「祭り」というものは、宗教儀礼そのものに他ならない。既存の宗教儀礼を用いて新しい解釈を施す――それは宗教を新たに作り出す試みだ。比喩的な意味でなく。
 それなのに「伝統文化」という枠組みに入れることで脱宗教性を取り繕い、さらには各地域ごとの文化に単一の「日本文化」の看板を被せて、ナショナリズムという別の宗教へと回収する。これは二重の意味での欺瞞ではないか。
 「日本文化」のコンテンツ化と消費、そこから発信されるナショナリズムとその宗教性はともかく、フィクションを通じた鎮魂に関しては、その行為そのものを否定するつもりはない。しかし、それは作り手と受け手の双方にその用意があって成立するものだろう。「刀剣乱舞」の名を掲げて、刀剣男士にやらせることではない。
 真剣乱舞祭2018は、刀剣乱舞のための作品ではなかったし、おそらく刀ミュのための作品でもなかった。その証拠に、らぶフェス2018では刀剣男士による殺陣がほとんどない(刀である彼らの物語ではないから)。題字の黄色は間接的にしか巴形薙刀を示さない(巴形薙刀すらこの作品の主人公ではないから)。
 たしかに刀剣は、祈りの道具にもなる。しかし、それはもちろん、刀剣を祈りのために用いる人間がいるからだ。刀剣男士となった彼らが、刀剣を用いた祈りをどのように受け止めるか、真剣乱舞祭2018のなかで問われることはない。
 そもそも実戦より典礼に用いられることが多いとされる巴形薙刀が、祭りの構図を理解していないはずがないのだ。巴形薙刀の知らない祭りの側面があるとすれば、それは熱狂のなかにある。
 そして彷徨っていた死者たち。これまでのミュージカル作品において、刀剣男士たちが悩み抜いた末に黄泉へと送ってきた彼らが、どうして道に迷ったりするだろう。
 さらには、彼岸に対する此岸に配置された刀剣男士たち。人の身を得た物であり、刀剣に宿る付喪神たる彼らは、はたして生者か? それとも生者は、我々か?

 巴形薙刀の舞のあと、ステージ衣装に着替えた刀剣男士たちが改めて登場し、ライブの熱狂が始まる。もはや東西の別などない。死者たちは榎本武揚に導かれて、再び北をめざす。
 それでも、全ての歌をうたいおえた刀剣男士たちは、再び巴形薙刀に勝敗を問う。そこで、巴形薙刀が三日月宗近に耳打ちされて出した結論は、「無勝負」。そしてひとり呟くのだ――「祭りとは……いや、何を言っても理屈になってしまう。そのくらい、この国の祭りとは、懐が深い」。
 どうして「この国の」と言ってしまったのだろう。言わせてしまったのだろう。「祭りとは」ではいけなかったのか。意味と体験が組み合わさってこそ祭りが祭りになるのは、何も日本に限ったことではないだろう。せめて「この国の」のひと言がなければ、ナショナリズムへの接続を回避する余地があっただろうに。
 わたしには、真剣乱舞祭2018の全ての参加者が、刀剣乱舞でも、ミュージカル刀剣乱舞でもなく、対外的にはコンテンツ化され対内的にはナショナリズムを高揚させる「日本文化」の創出、および脱色された鎮魂儀礼のために配置されているように思えてならない。

 ミュージカル刀剣乱舞というコンテンツ自体が嫌いなわけじゃない。嫌いだったら追いかけなければいいだけで、こんなにいろいろ考えて言葉を尽くしたりしない。わたしは、刀ミュのことをもっと好きになりたいし、ずっと好きでいたいのだ、本当は。
 刀剣乱舞には、そしてミュージカル刀剣乱舞には、その名に織り込まれた響きのとおり、「らぶ」で世界じゅうをつなげられる可能性があると信じている。だから、もっともっと良くなってほしい。批評というのはそもそも、そういう営みだ。
 完全無欠にidealな作品というものは存在しない。あらゆる作品は、受容されることで完成し、批評されることで高められる。わたしは「批評」を、そういう、能動的で創造的な行為であると確信している。
 そして拙いながらも、そういう批評の力で、刀ミュをもっと愛せるようになりたい。そしてミュージカル刀剣乱舞に、いっそう多くのひとに愛されるに足るコンテンツへと成長していってほしい。

追記、それと歌合2019についてのひと言

「歌合 乱舞狂乱2019」を観る前にひと段落つけたかったため、駆け足になってしまいました。
遺漏は多いでしょうが、解釈はともかく、根本的な作品内容自体に誤りはないと思います。

この論旨は、一年前に初めて会場でらぶフェス2018を観たあと、ふせったーにまとめたものです。
それから今日まで、円盤で見返したりもしましたが、大きく考えが改まることはありませんでした。

ちなみに歌合2019についてひと言述べておくと、いちばん引っかかっているのは、我々が理由も目的も説明されないまま祝詞を唱えさせられ、知らぬ間に顕現の儀に組み込まれていたことです。
自分が何をしているのか理解しないまま場の勢いに乗らされて、意図しない結果を導く一助になるって、思考停止への皮肉ですか?

刀ミュは演技も歌もダンスも衣装もメイクも道具もあんなにすごいのに……素直にうつくしさを愛でたい。

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