ぺこらの挑戦#28 癒えない傷
【注意】本稿は筆者の独断と偏見に基づく何ら根拠のない憶測である。
今回はメタい話をするので、メタい話が嫌いな諸兄はこのままそっと画面を閉じることを推奨する。
まずは兎田ぺこらの三月前半の配信実績から見ていこう。二月に喉を痛めて休養したこともあり、今月は前年同月比で10時間マイナスの44時間弱の配信であった。この後に全体ライブを控えているため、喉の状態維持を優先して意図的に抑え気味にしていたものと考えられる。
抑え気味とは言いつつも、SEKIROを中心にヴァンパイアサバイバーズ、ARKのγボスチャレンジ、アソビ大全凸待ち、PEKOZON商品レビューなど変化に富んだ内容で今月前半も大いに楽しませてくれた。
相変わらずリスナーを楽しませることがうまいぺこらではあるが、まだ潤羽るしあの騒動によって受けた心の傷が癒えていないようだ。今まで苦労して積み上げてきたものが一瞬で吹き飛ぶのを目の当たりにしたのだからそれも致し方なかろう。
昨日はカメラ配信だったが、うっかり真の姿を映してしまって皆の夢を壊したくない、家族などを映してしまったら迷惑かけてしまうから怖い、という主旨のことを語っていた。
確かに家族などを映してしまったら迷惑をかけてしまうのはわかる。だが、所謂「中の人」が見えることを何でそこまで嫌がるのかがわからない(そのことで炎上するのは当然嫌だろうが)。昨日のようなカメラ配信では、必ずのように反射に気をつけろ、というコメントがあふれかえり、「中の人」が映ることを極端に嫌がる人が多いという印象を受けるし、ぺこらも「中の人」が映ると皆の夢を壊してしまうと言っているのだが、実は筆者にはその感覚が理解できない。
「中の人」が見えて何が悪いのだろう。実際にリアルで顔出しして活躍しているホロメンだって何人もいるのはご承知の通りだ。「Vtuber」というものに触れてからまだニ年もたっていない筆者の感覚が他人とはズレているだけかもしれないが、「Vtuber」と「中の人」は別人格だと思っている。「中の人」の顔が知れようが、芸能活動をしようが、恋愛しようが、「Vtuber」という存在とは何の関係もない、というのが筆者の感覚である。(それは自己防衛のための欺瞞だと感じる人もいるかもしれないが自説は曲げられない)
Vtuberという存在のありようについて語るのはヤボだという風潮があるが、ヤボ天で結構、この機会に少し語りたい。Vtuberは市場としては大きく広がったが、文化としてはまだまだ未成熟で、特にそのありようについての理解が全く進んでいないと感じる。なお、筆者はホロライブ型のアイドル兼配信者としてのVtuberしか知らないのでそもそもVtuberという存在について語るのは本来おこがましいのだが、その辺は許容していただきたい。(これから筆者が語るのはこのホロライブ型のVtuberに特化したものである。)
最近、Vtuberとは「絵が動くだけの配信者」という感想を見かけた。つまり一般的にVtuberとは「アニメを起源とする進化ツリー上の亜種的な存在」として捉えられているのではないかと感じている。そしてこの捉えられ方自体が文化としての底の浅さを感じさせる。
筆者はVtuber三元論の支持者である。三元論とは、Vtuberはパーソン、ペルソナ、アバターの三つ要素によって成り立っているという説だ。
■パーソン:リスナーが感知できない「中の人」のプライベートな人格
■ペルソナ:「中の人」がVtuber用に演ずる架空の人格
■アバター:Vtuberの存在を仮想現実化するための化身である絵
Vtuberという存在は、ペルソナとアバターが融合して誕生した仮想現実上の新生物であり、パーソンとは全く別の人格である、というのが筆者の感覚である。長年Vtuberを続けている間にパーソンとペルソナは近づいていくかもしれないが同一にはならない。パーソンはペルソナにない属性を有し、逆もまたしかり、というのが筆者の考えだ。
アニメにはこのような三元的な要素はなく、キャラクター(絵)自体が確固とした人格を持っており、その人格を視聴者にわかりやすく具現化するための道具が声優であると思う。あくまで声優はキャラクターの人格を表現するための装置であって、アニメは絵と声優が融合した新生物ではない。(もちろん、ルパン三世のように絵と声優がほぼ一体化してしまうようなケースもあるけれども)
この差異への理解が進まないと、Vtuberには独立した人格が存在するのだという考え方が浸透しない。Vtuberの炎上事件、誹謗中傷や罵詈雑言が多いのは、経済的利益を求める連中が故意にやっている側面もあるだろうが、Vtuberには独自の人格が存在するという理解がない(=ただのしゃべる絵として敬意を払わない)ことが大きいのではないだろうかと感じている。
いずれにしても、現在発展途上にあるVtuberという文化が、今後どのように発展していくのか大いに楽しみではある。もう炎上だの誹謗中傷だのは正直うんざりだ。そんな非建設的なことはさっさとやめて、もっとVtuberという存在を素直に楽しめばいいのに。Vtuberとは独立した一個の人格を持つ配信者であるという理解が進み、肉体を持つ現実の人間と変わらぬ敬意をもって遇される時代が早く来ることを望んでやまない。