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死ぬほど嫌いな親父の介護日記 最終章「親父が死んだ日」

死ぬほど嫌いな親父が死んだ


親父が死んだ日

8月30日
親父が死んだ。
死ぬほど嫌いな親父が死んだ。

AM6:24 母親からケータイに着信。
「病院から電話があってお父さんの心臓が弱くなってるって」
倫理法人会の朝礼中だったので会長に理由を説明し、退室。

家に戻って家族たちと病院へ向かう。
「とうとう、この日が来たんだな」
親父のガン告知からずっと覚悟をしてきたはずなのに、現実を受け入れられない。
夢の中にいるような感覚だった。

「すぐには死なない」
理由はわからないけど、勝手にそう思った。
まだ大丈夫だと。

病院に到着し、病室に案内される。
コロナ禍の影響で親父は面会OKの個室に移されてた。

「おー!親父!来たぞ」
いつもと同じように病室に入る。
「親父!来たぞ」もう一度、声をかける。

半目を開き、反応がない。

病室に入るまでは「たとえ意識がなくても、おれが声をかければ反応する」と勝手に思ってた。

「声はちゃんと聞こえてますから」
付き添いに来た看護師さんが言う。

やっと、気づいた。
心電図から異常を知らせるアラーム音が鳴っていることに。
「心臓が動いてない」

「声をかけてあげてください。ちゃんと聞こえてますから」
こちらが動揺してるのに気づいたのか、看護師さんが声をかけてくれる。

おれはただ右手で親父の身体を揺らすしかできなくなってた。
「そういえば子供のころ、親父と遊んで欲しくて寝てる親父をこうやって起こしてたな」
子供のころ、親父は毎日飲み歩き、帰ってくるのは明け方。
親父と遊んだ記憶がほとんどない。

なのに思い出す、親父と遊んだ記憶。
悪い記憶ばかりじゃないんだよな。

「じいちゃんと二人にしてくれないかな」
じいちゃん子だった長男が言った。

「わかった」
おれと妻、次男で部屋を出て休憩室に移る。

病院の5階の窓から外を眺めながら子供のころを思い出す。
天気が良かったから遠くの建物まで見えた。
親父と行ったパチンコ屋も見える。
親父と野球道具を買いに行ったスポーツ店も見える。
親父と飲みに行った店も見える。

いつ頃から忘れていったんだろう。
親父との良い思い出。

家族、親戚が揃ったので部屋に戻り、死亡確認が行われました。

8月30日 9:24  「死亡を確認」

担当医から宣告を受け、現実に戻される。
おじいちゃん子だった長男がその場に泣き崩れる。

そして酸素マスク、点滴などの医療器具が外されていく。

「ほんとに死んじゃったんだな…」

その日から四十九日法要まで、親父との思い出、自分の過去をたどる作業が始まりました。

親父を知る人たちみんな言います。
「自分のやりたいようになんでもやって幸せな人生だった」
「お金も使い放題で何も残ってない。そんな幸せな人なかなかいない」

親父は金づかいは荒いし、街でケンカはする、見栄を張って飲み屋の女に大金を渡す。

みんなの目には豪快で自由奔放に映ってたようですが、おれの目から見た親父の評価は違う。

繊細で小心者。寂しがりやで見栄っ張り。
まわりの人に気配りができる親分肌。

親父から学んだことはたくさんあった。


贅沢しても心は満たされない

親父の育った環境

昭和20年8月14日 栃木県で生まれる。
親父の父親(おれのじいちゃん)は息子の顔を見ることなく、台湾海峡で戦死してます。

戦死した隆男さんと若き日のばあちゃん

戦死を伝える手紙より
『昭和20年1月30日未明 兵員輸送船に乗って台湾海峡を渡る途中、アメリカ軍の潜水艦により発射された魚雷二発が船底に命中。
沈みゆく船の上で救助を待っていたが、制海権を失っていたため救助に来る船がアメリカ軍の潜水艦によって次々と沈められていく。
仲間が死んでいくのを目の当たりにし、これ以上迷惑はかけられないと「天皇陛下バンザイ」を叫び、海に飛び込んだ』

死んだばあちゃんから読ませてもらった戦死を伝えるハガキです。
※原文そのままではなく、要約になります。

そのほかにも祖父から届いた手紙を何枚か読ませてもらいました。

そのすべてが生まれてくる息子を心配する、愛ある手紙でした。
「元気にしてるか。こちらは大元気だ」
「美香(祖母)はお転婆だから流産しないか心配だ」
ばあちゃんは親父を身ごもる前に一度、流産したそうです。

祖父は生まれてくる息子のこと、ばあちゃんのことを常に気にかけてた。
一時帰宅して、また部隊に戻る前日はひとり、部屋にこもり口を聞かなかったそうです。

愛する家族と離れ、部隊に戻れば上官に殴られ、辛い訓練の日々。
そして愛する家族を残して戦死した。

おれがこの手紙を初めて読んだのが33歳のとき。
悲しくて、切なくて親父に説教したこともありました。

「隆男さん(戦死した祖父)がこんなに親父のこと思ってたのに親父はいつまで不良やってんだ!」

親父は静かに「お前に何がわかるんだ」と言ってそれ以上はなにも言わなかった。

贅沢三昧の日々

親父が5歳のとき、ばあちゃんは再婚して大竹酒店に嫁いできた。
戦後の混乱の中、親子二人で大竹家に来たときは不安だっただろう。

しかし、ばあちゃんは男まさりでバリバリ働く起業家タイプ!
近所の男たちを集めて説教してしまうほどだったという。

その時代は今よりも男尊女卑が強かったし、戦争帰りで気性の荒い男たちも多かった。
その人たちを説教してしまうのだから、パワフルなばあちゃんだ!

ばあちゃんのエピソードで強烈におぼえていることがある。
おれが5歳ぐらいの記憶。
近所の女性からきた相談依頼。
「旦那さんが大酒飲みでギャンブル好き。家のお金を勝手に使いこんで困ってる」

ばあちゃんは旦那さんを呼び出し、お説教が始まる。
最後には、その旦那さんが泣きながら謝ってた!

その当時、見てたテレビ番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」と同じ場面だー!
詳細な会話は覚えてないが大の大人が泣いてたから強烈に覚えてる。

そんなパワフルばあちゃんがお店を切り盛りして、バブルの頃には年商1億超えを達成したそうです。

親父は経済的に恵まれた環境で育ちました。
「夢のハワイ航路」と言われた時代にハワイどころかヨーロッパ旅行してたぐらいです。

街頭テレビの時代にテレビを買い、車を買い、大学まで出てます。

バブル崩壊まで自由に使えるお金が月100万円!
女に渡したお金は数千万円!
田舎の酒屋の親父では考えられないぐらい贅沢な生活をしてました。

まわりがうらやむ生活してても本人は満足してなかった。
「こんなはずじゃなかった。店は兄貴が継いで、おれはもっと自由に生きられたんだ」
死ぬ1ヶ月前に聞いた時も同じようなこと言ってた。
「こんな田舎で店なんかやりたくなかった」
一般人より裕福な生活してても、心は満たされてなかった。

稼ぐことは間違いじゃない。
問題なのは「何のために」稼ぐのか。
稼ぐ理由、使う理由がないと幸せな人生は送れないと親父から学ぶことごできた。
親父ありがとう。

視点を変えれば「愛」に気づく

幼少期の思い出

「かずや(わたし)、ゆか(姉)!危ないから2階に逃げろ!」
3歳ぐらいの記憶。

親父は今でいう『DV』。

酔っ払って帰ってくると暴れて、母親は殴られ、泣いてる姿ばかり見てきました。
おれ自身も殴られ、抑圧されてました。

思春期のころには「死にたい」と思うようになり、母親には「お願いだから親父と離婚してくれ。おれはお母さんについて行くから」
本気で言ってた。

死ぬほど親父が嫌いだった。

「愛」に気づく

おれが40歳過ぎてもネガティブな言葉をぶつけてくる。
格闘技の試合が決まり、追い込み練習をしてるといつも言ってた。

「お前なんかどうせ負ける。もうわかってんだ」

試合前にそんなこと言うなよ!っていつもイラついてた。
子供のころから「お前は気持ちが弱い。そんなんじゃ何やってもムダだ」

ネガティブな言葉をぶつけてくる割には毎回試合を観にくる。
試合の時は友だちを連れてくるし、おれが勝つと喜ぶ。

なんでだ?
親父の身体が弱って試合を観に来れなくなってから深く考えるようになった。

そして、気づく。
あのネガティブな言葉は、おれに対して言ってたんじゃなかった!

おれが負けたとき、失敗したとき、ショックだから前もって自分に言い聞かせてたんだ!

「愛」を伝えるやり方がわからなかっただけ。
やり方に問題があっても「愛」には変わらない。

日常の中にも同じようなことはあると思う。
「なんであの人はあんなこと言うんだろう」
そう思ったとき、相手の立場を考えることを親父から学んだ。

歴史の縦軸を知ると生きやすくなる

後悔しないために

親父が肝臓ガンとわかってから、死んだあと後悔しないようにできるだけ親孝行をすることにした。

「親孝行をしたいときに親はなし」
そんな言葉があるぐらいだから、いまは分からなくてもきっとそうなんだろう。

でも、おれのことだから死んだあとに「あ、聞くの忘れた!」ってことはあるんだろうな。

ある人からのアドバイスもあり、親父をハグしようと思った。
しかし、なかなか勇気が出ない。
あれだけ嫌いだった親父をハグするのは最高に照れくさい。

墓参りに行く日だったので「墓掃除しながら、ばあちゃんに勇気もらうか…」

スーパーで花を買って、お墓へ向かう。

午後1時。

墓地に着き、車のドアを開け、外に出ると凄まじい熱気。
この日も猛暑日。汗が止まらない。

首のうしろが日に焼けてヒリヒリするなか、墓まわりの草むしり。
お墓をタオルで拭いてキレイになったところで、買ってきた花を挿して線香に火をつける。

「ばあちゃん、最後の親孝行に親父のことハグしようと思ってるんだけど照れくさくて勇気が出ないんだよ..」
墓のまわりに水を掛けながらつぶやいた。

そのとき、言葉が降ってきた。
「隆昭(親父の名前)をよろしく頼む」

おれに霊感はまったくない。スピリチュアルのこともよくわからない。
でも、聞こえた。聞こえたというか感じた。

音として聞こえたのではなく、脳に直接触れた感覚。

「隆男さんの声だ…」

直感的にわかった。

そして、そのとき聞こえた言葉は台湾海峡で死ぬ間際に叫んだ言葉だと感じた。
「おれは隆男さんに託されたんだ。親父のことを」

そう思った瞬間、その場に泣き崩れた。
30分以上動けなかった。
「寂しかったのはおれだけじゃない。親父も寂しかったんだ。おれが親父の魂を癒すことが隆男さんから託された使命だったんだ。」

点と点が繋がった気がした。
親父が暴れてた理由、毎晩飲み歩いてた理由。今までのことが繋がった。

「親父を許そう。」そして、親父をハグすることで隆男さんの魂も癒せるんじゃないかと思った。

その日の夜、実家で酒飲みながら親父といろいろ話した。
そして、帰るとき親父をハグした。

親父は驚いてたが「墓参りのときに隆男さんの声が聞こえたんだよ。親父のことよろしく頼むって。だからこうやってハグすることで親父と隆男さんを繋げるのがおれの役目なんだよ」

親父は照れ笑いしながら泣いてた。

おれは本当に運が良い。
親父が生きてるうちにハグできた。大事なことに気づくことができた。
おれは先祖に愛されてる。

戦死した隆男さんや親父の生い立ちを知ることで死ぬほど嫌いな親父を許すことができた。
歴史の縦軸を知ると嫌いな人も許すことができる。
生きやすくなる。

最後にすこし思い出話

「この地域にはキ◯ガイが4人いる」

実家は酒屋で子どもの頃、よく店番をしていました。
近所のおじさんがお酒を買いに来たときのことです。

「お前の親父さんはまた2階で麻雀やってんのか?お前は、あんな狂ったレートで麻雀なんかすんなよ!」

親父は毎週末、徹夜で麻雀やってました。しかもビックリするほどの高レート…。(30年以上前だから時効ということで)

よく店番をしていたので話を聞き出すのが得意でした。
いろいろ聞いてるうちに近所のおじさんは話すのが気持ちよくなり、その場でワンカップ酒を空け続け、ボルテージが上がっていきます。

「この地域にはキ◯ガイが4人いる!そのうちの一人がお前の親父だ!」

ちなみに2年ほど前、行きつけのスナックでその4人のうちのもう一人と会いましたww
その人は昭和50年代にカミナリ族をやっていた、時代の最先端の不良でしたww

親父へ

おれは親父のこと嫌いでも、心の中では憧れてた。
人にはできないことをやってたから。
なかなか経験できないことも経験できた。

いまのおれは親父の弟子たちに支えられてる。
みんな親父の意志を受け継ぐ素晴らしい人たちだ。
その素晴らしい人たちに尊敬されてた親父はやっぱり凄い。

おれは親父の息子で本当に良かった!
何度生まれ変わっても一緒に家族やろう!

つぎに生まれ変わるときは、おれが親父のこと探しに行くよ。
また会おうな。




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