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英語を勉強しようと決めた理由

やりたいことをやろう!という時、
今いる場所に居るべき理由はあるだろうか。

あるとしたら、それってなんだろう。

「ここで通じる言葉しかわからないから」は、大きな理由かもしれない。

最近本格的に英語を勉強すると決めたきっかけについて書こうと思う。

憧れの人たちは大体英語を話せる。なんでだろう?

憧れの人たちはなぜか大体英語が話せる。一人でいろんな国に行ったり来たりしていて楽しそうに見える。
憧れの人たちにとって国境は可能・不可能のボーダーではなさそうだった。私にとってはとても大きな壁だった。

根を張ってその土地に住み続けるという自分にとっての当たり前が、不自然なこだわりに感じた。


ここ一年前くらいから、英語を勉強する必要性をひしひしと感じている。
一番大きな理由は「言葉が大きな壁になることのもったいなさ」である。

言葉が分かれば知らないことや知らない場所に好きなようにアクセスできる。色々な人の考え方や知識、カルチャーを学ぶチャンスになる。ゆくゆくは日本以外のどこかで地に足をつけて暮らしてみたい。「もしも英語を話せたら」というだけでこんなふうにどこまでも夢が膨らむ。

言い換えると「英語が話せない」ことが足かせとなって選択肢を減らしているということでもある。英語がわかるという前提がなければスタートラインにも立てなそうだと思った。知らないところに行きたいなら言葉を得るしかない。そのためには、勉強するしかないのだった。

言葉がわかるという絶対的な安心感

ちょうど5〜6年前、友達と二人でフィンランドに行った。始めての海外旅行だった。街中のフィンランド語はすべて記号だった。でも観光地のメインストリートや空港では英語表記が多く、度々助けられた。その時人生ではじめて英語のありがたみを知った。私は英語を話せなかったけれど、見知らぬ土地で意味が分かる単語を見つけられるのはこんなにも心強いものかと日本の義務教育に感謝した。


「知らないことの方が多い」と気づかなくてショック

昨年イギリス出身の彼と話していて出た「日本人には日本が世界の全てだと思ってる人が多い」という話題が印象に残っている。

確かにそうかもしれないと思った。自分がそうだった。


日本で生まれ育ち外に出ず日本で死ぬとしたら、もちろんそこが世界の全てである。例えば私は「外国人」といえば白人を連想する。でも自分が「外国人」として扱われる場面は想像しないし、できない。つまり、私の頭の中にいる「人種」はデフォルトで日本人しかいないのである。彼と出会うまで私は自分のことを「世の中をフラットに捉えている」と思っていた。

最大級にとんでもない勘違いである。

恥ずかしくてできれば人には言いたくない。

気が弱くいつも黙って主張をせず同調圧力に流されていて、細かいことにこだわって、真面目で、予定は細かくきっちり立てたくて、時間をとても気にするし(守らないけど)、ご飯の食べ方や形式的なマナーを気にする。

作り笑いや電話の声などオンオフを分けて「自分」を作り、極力他人とは関わらないように気を遣って生活する。

そんな風に私はかなり典型的な日本人らしい。

でもそんなこと、自分で気づけるはずがない。指摘を受けてから「自分には知らないことの方が多い。自覚して謙虚になろう…」と反省した。




来年の夏イギリスに行こうとしている。

彼とその仲間たち、家族と、その人たちの慣れ親しんだ言葉で話したい。彼の生きてきた年月、バックボーンを知れたら愉快でさぞ楽しいだろうと想像する。

いまの目標はIELTS6.0を取ることと、日常会話をストレスなくできるレベルになること。
そしたら英語圏に住む選択肢が私の人生にもやってくる!

選べるというのは人を明るい気持ちにさせる。

目標を達成した暁には、英語の喧嘩でガッツリ言い返したい。
そのときを迎えるために今から単語帳を開く。

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