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【掌編小説】朝を迎えに

 靴を脱いで膝を抱える。
 スーツに皺が寄ると一瞬の躊躇があったが、余韻も残さず消えた。
 車の中の狭い座席で、私はフロントガラスに打ち付ける雨粒を目を細めて見ていた。
 雨が透明を歪めるだけで閉塞感がずっと増す。夜にはまだ早いが日は薄い。
 私は寂しさを感じていた。
 運が悪かった。
 この日、遠方のクライアントからクレームが入った。本来の地区担当の阿部さんは有給で、代わりにたまたま一番近かった私が対処する羽目になった。
 天気が悪いという予報も出ていたが、対処しないわけにもいかない。そして結局、クレームは大したこともなく、顔を見せるだけでクライアントは納得し、そして、唯一の帰り道が冠水により封鎖。
 私は帰れなくなった。
 この地区は帰れなくなる可能性があることは聞いていた。車には毛布も積んであるし、飲み物も少しだがお菓子もある。DCアダプターだってある。
使いたくはないが、会社支給の携帯用トイレもあった。
 明日には帰れると先輩からの応援メッセージも貰っていた。
 しかし、寂しかった。
 数時間後には、助手席には食べ終えたチョコレートの包み紙が散らばっていて、私を慰めてくれる物は残っていなかった。
 寂しかった。
 心細かった。
 一人だった。
 やがて夜になり、雨音に慣れた私の耳は静けさを伝えるだけの器官に成り果て私を苦しめた。
 恐ろしい夜、というものを思い出した。
 茫漠とした不明瞭さは私を飲み込んでしまおうと絶えず威嚇を繰り返す。幼い私はその夜に確かに闇を見ていて、その正体を今、私の恐怖を利用して顕現している。
 夜は、恐ろしかった。
 朝、私は目元に蔓延った異物感を取り除きながら目覚めた。覚えていないが、泣いていたらしい。忘れてしまえるくらいにはやはり大人になってしまっている。
 だが、とても疲れていたのだろう。
 日はすっかり登りきっており、眩しかった。
 ふと、フロントガラスに残った雫の一つがきらりと太陽を私の瞳に向けて放射する。
 朝日に当てられたのは、久しぶりのことだった。
 車から降り、照り返す雨の匂いを踏みつけ、また低い位置にある太陽を見つめた。
 それは泣きたいほど、美しかった。

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