見出し画像

【掌編小説】木漏れる雨に花滲む

 一昔前と呼ぶよりも昔の定説を思い出した。その定説を信じている訳でも偏見があるわけでもないのだが、珍しい見事な金髪と主張の強い胸部から無意識に想起されてしまった。理不尽な後ろめたさには十分だったし、彼女が学生服を濡らしている点からその罪の意識は輪を掛けて強く感じる。
 雨水の滴る薄暗い緑廊の下に訪れた彼女に私は『仕事モード』で応対することに決めた。
「あ、どうぞ、使ってください」
 伏し目がちにタオルを手渡す。受け取ってもらうために一言添えた。
「会社の支給品ですからどうせ使い捨てるものなので、貰ってください」
「……でモ……」
 少しカタコト、少し冷や汗。ちゃんと通じるだろうか。
「返さなくて大丈夫なやつです。逆に返されると扱いに困っちゃうので」
「ありガとう、ゴザイます」
 多少無理やりだが、受け取らせる事ができた。これで、嫌な顔をされて追い出されることもないだろう。女子高生との距離は難しい。現状をキープして時間が過ぎるのを待とう。
 ちらりと横目をやると金髪の少女はタオルを頭から被っていた。
 良かった。ちゃんと親切になれたようだ。
 ほっとして少し気が緩む。同じように雨脚も緩んでくれればいいもののその気配はない。強い雨ではないが、そのまま出歩けば濡れ鼠になるだろうことは隣の彼女が証明済みである。文庫本でも取り出せたら良かったのだが、本を守るにはこの藤の蔓が巻かれた屋根では心許ない。次第に非日常は退屈を感じ始める嫌な時間に切り替わり始めた。
「アノ……」
 声を掛けられた瞬間にスイッチを切り替える。再び『仕事モード』だ。
「はい? なんですか?」
「これ、ツカってくださイ」
 傘、だった。
 青い小さな折り畳み傘で、もしかしたら布地には紫陽花でもあしらわれているのかもしれない。しかし、私の脳裏に浮かんだのはそんな情緒的なことではなく、やはり例の定説だった。リセットしなければ。
「え、どうして自分で使わないの?」
「カレシのものだけどワカレたから」
 合点はいったが、にしてもバカバカしい。それ故、若いという感想で片付けることもできるのだが、やはりリセットだ。下手な表情の崩し方はしない。今はしっかり『仕事モード』だ。
「別れた彼氏のプレゼント?」
「きょうワカレました」
 少し怒った顔をする彼女を宥めるよう、困った笑みを取り繕った。
「そうなんだ」
 そう返事はしたものの、大人としての取り繕い方に迷いが出る。受け取ってしまうと使わざるを得ないし、かといって、受け取らずにいれば私も彼女も気まずい思いをするかもしれない。
「ダれかにわたスほうがカサも大切にできますので」
 断りづらい上手な言い回しだ。思慮深く賢い子だと冷静に思わされてしまった。
 困ってしまった。高すぎないハードルを探し、より良いを求めた結果の終わりがこれでは大人として格好がつかない。手持ち無沙汰に傘を開いてみると薄く爽やかに紫陽花が刺繍されている。似合うか似合わないかでいうとギリギリだろうか。
「ごめいワクでしたか?」
「え? あ、いや。そんなことないよ。綺麗な傘だと思っただけだよ」
「……スイマセン」
 気を使わせてしまった。大人失敗といったところだろうか。
「いや、こちらこそ変な態度取ってごめんよ。格好つかないな、って思って迷っちゃったんだ」
「おにいサンはしんせつですので、カッコいいとおもいます」
 頑張って気持ちを伝えようとする語調。彼女の真摯さが眩しく嫌な笑みが零れてしまった。誰かを馬鹿にするような笑み。情けない自分を笑う自重のそれだ。別に真剣な気持ちではない。
「ありがとう。じゃあ、離れるね」
 なるべくどうとも取れる言葉を残して腰を上げた。広げた傘が雨水に打たれて音を立てる。炭酸水の弾けるような軽い音だ。しかし、妙に慣れない音。
 生きるためには慣れないといけない。仕事も家庭も学校も、いつでもどこでも誰とでも。慣れてしまわないと腐ってしまう。
 あるいは腐り落ちたから慣れたのかもしれない。ポッカリと空いたその穴に、自分ではない『役割』が収まって、あたかも自分であるかのように振る舞っている。こんな考えも誰かのもののような気がする。それくらい僕は『大人』を生きようとしている。
 なのに、雨音が慣れなかった。
 仕方がなく、走った。少し遠かったコンビニでビニール傘とジャスミン茶を購入してまた走った。途中で彼女が帰ってしまっても構わなかった。汗をかいてシャツがベタつく。雨よりも不快な思いをしながらも、僕はやはり急かされるように走っていた。
 公園にたどり着き、タオルを羽織った彼女の姿を再び見つけ足を一度止める。
 心臓を慣らす。息を均す。歩調を落として近づいた。
 なんと声をかけようか。名前は知らない。お嬢さんはキモい。ああ、すいませんだ。
「すいません……」
 正面から近づいたため、目があった。そして、彼女と目があったのは初めてだった。
「ハイ」
 彼女の青い瞳は滲んでいた。声は変わらない。そう時間も経っていないはずだ。
 彼女は最初から泣いていたのだ。
 僕は考えた。言葉ではなく気持ちで考えていた。きっともう余裕がなかったのだ。彼女のためにできること。できる優しさ。掛けられる言葉。大人としての振る舞いを忘れた僕の言葉を彼女に手渡す。
「…………どっちがいいかな?」
 方や美しい刺繍の傘、方やコンビニで千円しない無個性の傘。
 一瞬、瞳が揺らめいた。伸ばされた手は明らかに惑う仕草。指は震えていた。
 彼女はビニール傘を手に取った。両手で握りしめ、深く息を吐いた。
 僕も少し、息を吐けた。
「傘、ありがとう。大事にするよ。これお礼に」
 座る彼女の傍らにジャスミン茶を置いた。もっと甘いものの方が良かったかもしれない。だが、親切にしては蛇足だろう。ぱちぱちと軽い雨が傘に弾ける。
 「ありがとうゴざいます」と声が聞こえた。
 手を上げて笑顔を返した。
 刺繍の傘が少しだけ僕に馴染んだ気がした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?