ひこうき雲を練習中なので。
葬式が行われたのは夏休みがもうすぐ終わる、良く晴れた日だった。
よく知っている奴ではない。
ただ小学校が同じなだけだった。
だけど目立つ奴だったから、知ってる。
あいつのことを知らない人の方が少ないと思う。
人気者だとか、そういうことじゃない。
病気であまり学校に来れないんだ。
来たと思ったらいつも車いすに乗っていて、
体育も給食も楽しめない。
そんな病気らしい。
「可哀想だ」と大人は言っていたけれど、
私にはその気持ちは分からず、
「怖いな」と思っていた。
私がなにも考えずにできること、
できるとさえ意識しないことを
あいつは顔を真っ赤にして、
何十倍の時間もかけて一生懸命にやるか、
周りの人に代わりにやってもらわないといけない。
その様子が同じ人間とは思えなくて、怖かった。
そんなあいつが死んだ。
驚きはしなかったけれど、
なんか胸にぽっかりと穴が開いているのを感じる。
子どもの頃から幾度となく行っている
私よりもうんと年上のスーパーマーケットが
閉店した時と同じ穴の種類だった。
遺影のあいつは少し大人になっていた。
5年の間に私はできることを増やして大人になったけれど、
あいつはできないことを増やしながら大人になったんだろう。
少し大人の言う「可哀想」が分かった気がした。
死因は不整脈らしい。
病院のベッドの上で気付いたら死んでいたと。
死に目に会えなかった遺族は悲しそうだが、
私はしあわせだったんじゃないかなと思う。
だってあいつは生きている間
ひとりでできることなんて殆どなかったんだ。
最期の最期死ぬことだけは完全にひとりでできた。
だから淋しかったより嬉しかったんじゃないかと思う。
『あいつは生きている間なにを考えていたんだろう。』
お坊さんの野太い声が私の鼓膜を揺らすのを感じながら、考えてみる。
病室で見ていた景色。
きっと窓側のベッドで動かない体にもどかしさを感じながら、
空を飛び、美しくさえずる鳥や、けたたましく鳴く蝉に
羨ましさを感じていたんじゃないか。
一人で飛び、自分の食う飯を用意し、それを食べ、
時に同族と言葉を交わし、子孫を残す相手を自分で選び、
子孫を残し、子孫を育て、生命の循環を担う…。
あんな小さな生き物ですらできるのに、
自分はただそれを寝そべって眺めることしかできない。
生きているのに、生命活動をできないんだったら、
死んでいるのと同じではないかとあいつは何度自分を責めただろう。
「あまりにも若すぎた」と嘆く人はなにも分かっちゃいない。
むしろあいつにとっては「長すぎた」んじゃないか。
「こんなことを考えても、答えは出ないな」と
集中力が途切れた私はふと目を外にやってみる。
もうすぐ秋が近いからか、空がとても高い。
不自由な容れ物を脱したあいつは今、
この高い高い空を自由に駆け回っているだろうか。
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