ネットという沼地の歩き方
"何をするか"より"誰とするか"
ジム・コリンズの『ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則』に「だれをバスに乗せるか」という有名な一節があります。
この発想の大胆なところは、"First Who"、つまり何をするかよりもまず、誰とやるかを決めるべきだとしているところです。
そして誰をバスに乗せるかの基準についても、仕事上の具体的なスキルや専門知識など一般的なものを採用するのではなく、性格や価値観などより内面的な部分を重視すべきであると続きます。
さらにこの"誰"にこだわる姿勢は、仕事上における成功のみならず、それを超えた人生という尺度においても同様であると結んでいます。
つまりジム・コリンズがこの章で言わんとするところは、仕事に限らず人生全般において誰といるかが非常に重要であり、その判断基準としてその人の性格や価値観など内面的な部分の相性を重視すべきであるということです。
テキスト型のプラットフォームは穴場?
古代中国の思想家、孔子の教えをまとめた『論語』学而に「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉があります。
この言葉は、口がうまく言葉使いが巧みで、愛想良くみえる者には得てして仁の心(誠実さ)が欠けているということを指摘しています(※1)。
この言説には賛否両論あると思いますが、個人的にはこれまでの経験からしても一理あるような気がしています。
詐欺師やサイコパスなどはほぼ例外なく口が達者ですが(そうでない者は淘汰されているという生存者バイアスの可能性もありますが)、口の上手さ、弁舌の巧みさに必要とされるワーキングメモリの大きさが(脳のリソースの関係で)前頭前野を含む他の脳領域の活性とある程度トレードオフになるためではないか、というのが自分なりの仮説です。
まぁこれはあくまで仮説ですが、たとえば社交の場などではどうしても口の上手い人が目立ちやすく、思慮深く口数があまり多くない人にはなかなかスポットライトが当たりにくいというのが実際のところではないかと思います。
そしてどちらかと言うとそのような人達は、マイペースに発信でき、瞬発力を要求されないインターネットの世界(特にブログのようなテキスト型のプラットフォーム)に流れやすい気がします。
ところでテキストの良いところの一つは、書き言葉を綴っていく過程で自然と内容が凝縮されやすく、その人の価値観や内面の深い部分がにじみ出た、精神のエキスに触れることができるため、表面的なコミュニケーションではなかなか知り得ない、本質的な性格の部分がある程度わかる、というところです。
私はこれまで何度かネットで知り合った人と実際に会ったことがありますが、事前に相手のブログや配信を見たり聞いたりして、だいたいの人となりがわかっていると、初対面なのに妙に話が合うなという不思議な感覚を覚えます。
相手の内面的な部分について知ることができるテキスト型のプラットフォームは、ある意味マッチングツールとしても非常に優れているのではないかと思います(※2)。
あともう一つは、ある程度の長さの文章を書くには割と根気のようなものが必要とされるため、その時点で割とスクリーニングがかかっている(参入障壁がある)というのもあるかもしれません。
現実の人間関係というものをRPGのパーティーに見立てると、テキスト型のプラットフォームは"なかま"を見つけるのに、意外と穴場的な場所と言えるかもしません。
インターネットという毒の沼地の歩き方
ネット上にはリアルではなかなか遭遇できないレアキャラとの出会いがある。
しかし一方でインターネットには決して無視できない負の作用があります。
これまでの複数の研究で、ネット(特にSNS)を利用する時間が長いほど、幸福感が低下しやすいことが指摘されています。
これまでに書いた記事の中で何度かネットの負の側面について触れてきましたが(※3)、インターネットそれ自体に依存性があり、のめり込むことには相応の代償があるということにはやはり自覚的であった方が良いと個人的には思います。
たとえるならネットはいわば知らない間にゆっくりじわじわと体を蝕む毒の沼地であり、インターネット時代に必要とされるリテラシーとは、宝箱をさっと回収したらすぐに立ち去るがごとく、あくまでツール、手段としての利用にとどめるという意識を持つことなのかもしれません。
※1:
英語圏にも"Empty vessels make the most sound."という似たような諺があるようです。
※2:
※3:
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