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ネットという沼地の歩き方

"何をするか"より"誰とするか"

ジム・コリンズの『ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則』に「だれをバスに乗せるか」という有名な一節があります。

この発想の大胆なところは、"First Who"、つまり何をするかよりもまず、誰とやるかを決めるべきだとしているところです。

 今回の調査をはじめたとき、良好な企業を偉大な企業に飛躍させるためにはまず、新しい方向や新しいビジョン、戦略を策定し、つぎに新しい方向に向けて人びとを結集するのだろうとわれわれは予想していた。
 調査の結果は、まったく逆であった。
 偉大な企業への飛躍をもたらした経営者は、まずはじめにバスの目的地を決め、つぎに目的地までの旅をともにする人びとをバスに乗せる方法をとったわけではない。まずはじめに、適切な人をバスに乗せ、不適切な人をバスから降ろし、その後にどこに向かうべきかを決めている。要するに、こう言ったのである。「このバスでどこに行くべきかは分からない。しかし、わかっていることもある。適切な人がバスに乗り、適切な人がそれぞれふさわしい席につき、不適切な人がバスから降りれば、素晴らしい場所に行く方法を決められるはずだ」

『ビジョナリーカンパニー2 飛躍の法則』/ ジェームズ・C・コリンズ 著

そして誰をバスに乗せるかの基準についても、仕事上の具体的なスキルや専門知識など一般的なものを採用するのではなく、性格や価値観などより内面的な部分を重視すべきであると続きます。

どういう人が「適切な人材か」なのかを判断するにあたって、飛躍を遂げた企業は学歴や技能、専門知識、経験などより、性格を重視している。具体的な知識や技能が重要でないというわけではない。だが、これらは教育できるが(少なくとも学習できるが)、性格や労働観、基礎的な知能、目標達成の熱意、価値観はもっと根深いものだとみているのである。

さらにこの"誰"にこだわる姿勢は、仕事上における成功のみならず、それを超えた人生という尺度においても同様であると結んでいます。

愛情と尊敬で結ばれた人たち、おなじバスに乗っているのが楽しい人たち、失望させられたりはしない人たちと時間の大部分をすごしていれば、バスの行く先がどこであろうと、まず間違いなく素晴らしい人生になる。インタビューの結果からいうなら、飛躍した企業の経営幹部はあきらかに仕事を愛していた。そして、それは主に、ともにはたらく人たちに愛情をもっていたからだ。

つまりジム・コリンズがこの章で言わんとするところは、仕事に限らず人生全般において誰といるかが非常に重要であり、その判断基準としてその人の性格や価値観など内面的な部分の相性を重視すべきであるということです。

テキスト型のプラットフォームは穴場?

古代中国の思想家、孔子の教えをまとめた『論語』学而に「巧言令色鮮し仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という言葉があります。

この言葉は、口がうまく言葉使いが巧みで、愛想良くみえる者には得てして仁の心(誠実さ)が欠けているということを指摘しています(※1)。

この言説には賛否両論あると思いますが、個人的にはこれまでの経験からしても一理あるような気がしています。

詐欺師やサイコパスなどはほぼ例外なく口が達者ですが(そうでない者は淘汰されているという生存者バイアスの可能性もありますが)、口の上手さ、弁舌の巧みさに必要とされるワーキングメモリの大きさが(脳のリソースの関係で)前頭前野を含む他の脳領域の活性とある程度トレードオフになるためではないか、というのが自分なりの仮説です。

まぁこれはあくまで仮説ですが、たとえば社交の場などではどうしても口の上手い人が目立ちやすく、思慮深く口数があまり多くない人にはなかなかスポットライトが当たりにくいというのが実際のところではないかと思います。

そしてどちらかと言うとそのような人達は、マイペースに発信でき、瞬発力を要求されないインターネットの世界(特にブログのようなテキスト型のプラットフォーム)に流れやすい気がします。

ところでテキストの良いところの一つは、書き言葉を綴っていく過程で自然と内容が凝縮されやすく、その人の価値観や内面の深い部分がにじみ出た、精神のエキスに触れることができるため、表面的なコミュニケーションではなかなか知り得ない、本質的な性格の部分がある程度わかる、というところです。

私はこれまで何度かネットで知り合った人と実際に会ったことがありますが、事前に相手のブログや配信を見たり聞いたりして、だいたいの人となりがわかっていると、初対面なのに妙に話が合うなという不思議な感覚を覚えます。

相手の内面的な部分について知ることができるテキスト型のプラットフォームは、ある意味マッチングツールとしても非常に優れているのではないかと思います(※2)。

あともう一つは、ある程度の長さの文章を書くには割と根気のようなものが必要とされるため、その時点で割とスクリーニングがかかっている(参入障壁がある)というのもあるかもしれません。

現実の人間関係というものをRPGのパーティーに見立てると、テキスト型のプラットフォームは"なかま"を見つけるのに、意外と穴場的な場所と言えるかもしません。

インターネットという毒の沼地の歩き方

ネット上にはリアルではなかなか遭遇できないレアキャラとの出会いがある。

しかし一方でインターネットには決して無視できない負の作用があります。

これまでの複数の研究で、ネット(特にSNS)を利用する時間が長いほど、幸福感が低下しやすいことが指摘されています。

 フェイスブックと科学は仲が悪い。だらだらとSNSを眺めていると孤独感や嫉妬心が深まり、自分の人生に不満が募ることを、多くの研究が指摘している。最近の研究でも、SNSを止めた被験者の幸福感が増すことが明らかにしている。

 こうした研究のほとんどは、SNSの積極的な使用(例えば、これを利用して実際に会う計画を練る)と他人の脚色されたネット上の生活を消費する受動的な使用とを区別している。前者ならば望ましい。友達みんなで集まれば大抵は大きく気分が晴れるだろう。だが後者ではきっと落ち込むことになる。

https://karapaia.com/archives/52213951.html

スクリーンタイムと聞いて思い浮かぶすべて――SNS、ネットサーフィン、ユーチューブの動画にゲーム――が精神的な不調に繋がっていた。一方、それ以外のことをする場合、つまり誰かと会ったりスポーツをしたり、楽器を演奏したりすると精神的に元気になる傾向があった。

SNSを社交生活をさらに引き立てる手段、友人や知人と連絡を保つための手段として利用している。そうした人たちの多くは、良い影響を受ける。対して、社交生活の代わりにSNSを利用する人たちは、精神状態を悪くする。

『スマホ脳』/ アンデシュ・ハンセン 著

これまでに書いた記事の中で何度かネットの負の側面について触れてきましたが(※3)、インターネットそれ自体に依存性があり、のめり込むことには相応の代償があるということにはやはり自覚的であった方が良いと個人的には思います。

たとえるならネットはいわば知らない間にゆっくりじわじわと体を蝕む毒の沼地であり、インターネット時代に必要とされるリテラシーとは、宝箱をさっと回収したらすぐに立ち去るがごとく、あくまでツール、手段としての利用にとどめるという意識を持つことなのかもしれません。


※1:
英語圏にも"Empty vessels make the most sound."という似たような諺があるようです。

※2:

※3:


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