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ピクトグラム(絵文字)

ここでは、「人とものと情報」を円滑に関係づける「インターフェース(媒体)」を取り上げます。マン・パーソン・インターフェースは、人と人の関係を取り持つ伝達媒体。マン・マシン・インターフェースは、人と機器類の関係を取り持つ伝達媒体。マン・スペース・インターフェースは、人と環境の意味を取り持つ伝達媒体の合計3つです。最後のスペースは、物理的環境だけでなく、情報空間の広がりまでも意味するものと思ってください。

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その新しい媒体は、人類が5,000年前から使ってきた各種の文字言語でなく、文字や話しことばを補う「視覚言語」の絵文字です。視覚言語と言うとイラストや漫画や映画なども含んで幅が広くなるので、「ピクトグラム(絵文字)」と言えば良いでしょう。

その呼称は国内で太田が50年くらい、日本語で「絵文字」英語でピクトグラムを使ってきたところ、今日では「ピクトグラム」までも日本語になりつつあります。国際会議ではグラフィカル・シンボル (1980年代はグラフィックシンボル)でした。日本の国家規格JISでは、図記号と呼ばれています。現代の国際社会でピクトグラムを国際規格にする審議組織がISOです。その250種類ほどある専門委員会の一つTC145には、SC1、SC2、SC3の分科会が3つあって、太田は、日本代表として毎年何回もそれらの国際会議に出席してきました。国内では国家規格JISに採択して、国内外を整合化させる産官学の国内対策委員会にも、毎月のように出席を求められて37年間、1年の半分くらいの時間と労力を使って協力してきた結果、経済産業大臣から標準化功労者賞を授与されました。

ISOとは国際標準化機構のことです。創立50周年の時に太田がポスターを頼まれてデザインしており、それから25年くらい経っています。空気や水などの環境を含む、すべてのものの国際規格を定めています。建築部門だけでもその規格は、百科全書何冊にもなるほど。紙の寸法のA4サイズから毛糸の編み方まで決めています。TC1はビスについての規格です。建築や機械の素材や構造が世界共通でなければ、輸出しても修理一つできないからです。ISO9001の品質規格やISO14001の環境基準の認証を得ることは、関係企業にとって、ノーベル賞を受賞するほど重要であることは、すでによく知られた事実です。

ここで取り上げるインターフェース(媒体)は、話しことばや文字、国籍や宗教、文化や経験や教育や年齢に関係なく、誰でも見るだけでその意味がわかる簡潔な絵表示の形と色を使って、コミュニケーションを円滑にする手立てのことです。40年以上前に太田を含む3名のキーパーソンでグラフィカルシンボルを「図記号」と名付けた用語は、現在でも日本の国家規格JISで公用語として使用されています。

ピクトグラム(絵文字)の役割

「人と環境の関わり」の事例を見てみましょう。空港や駅などは、規模が大きく複雑だから、施設の関係者でもないかぎり自由に利用できません。「人と機器類の関わり」ではパソコンも同様で、各種機能の重層複合化が進んでいて、一般利用者には複雑でわかりにくく困惑することばかりです。

「人とものと情報の関わり」に、文字言語に代わって「ピクトグラム」が開発され、活用されてきました。陸続きのヨーロッパで、各国語の文字で書かれた道路標識がドライバーに不評とあって1949年、国連提案の色と形の道路標識に代わったのが、その最初の例でした。国連の中に、ICBLB (International Council of Breaking Language Barriers)と呼ばれた言語障壁打破国際委員会があって、日本を含む各国からの理事が出席していたのです。1960年代からは、ピクトグラムが国際社会で公用語として使用される時代に入ったのです。

1964年の東京オリンピックでは、初めて国際行事で競技種目と施設案内のために、60種ほどのピクトグラムによる標示サインが、デザイン評論家勝見勝ディレクターによって開発され、その後のすべてのオリンピックと万国博覧会案内の先鞭になりました。その1年前の1963年、オリンピックで来日する外国人ドライバーのために、国連道路標識の8割ほどが、日本でも採用されて現在に至っております。それまでは交差点に、1文字15cmほどの漢字の文字で、左折禁止、右折禁止と標示されていたことが、今でも私の記憶に残っています。

ピクトグラムの機能は、9種類に分かれます。前述のISO145/SC1は、トイレやバス停を知らせる案内用。ISO145/SC2は、非常口や安全標識、ISO145/SC3は機器操作用で車の運転席に取り着いているワイパーやヘッドライトなどの操作用ピクトグラム。他にも地図記号などの教育用、市章や江戸の看板の識別用、電気器具や安全標識の注意・警告用、カメラや繊維製品の取扱用、各種文字や矢印の伝達用、花押や烙印などの認証用、図像や壁画などの象徴用と、広い範囲をカバーしています。

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ワシントン国立動物公園では、家族連れが一緒に楽しめる「好きな動物に会える足跡誘導サイン」が、アメリカのデザイナー、ランス・ワイマンによってデザインされました。メキシコ・オリンピックの案内サインも彼がデザインしています。

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ワシントン国立動物公園 動物の足跡による誘導表示
デザイン  ランス・ワイマン

ピクトグラムを利用した統計図表によって、市民が自分たちの税金の使われ方などを科学的に理解できる展示館をウイーン市内に設けて、市民教育に役立てたのがオットー・ノイラートです。

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オットー・ノイラート / イラスト 太田幸夫

版画作家ゲルト・アルンツの協力を得て、多い時は70名以上のスタッフでアメリカやロシアの政府の注文にも応えていたウイーンのアイソタイプ研究所は、ノイラートがユダヤ人のため、1930年代末、ナチスドイツの弾圧で閉鎖。1940年、命からがらドーバー海峡を小舟で横断してロンドンに亡命。1945年に客死するまでの5年間、 ロンドンで生物学者ランロット・ホグべンと親交を得た成果が、『コミュニケーションの歴史』と題するホグべンの有名な世界の名著になって実りました。

『洞窟画から漫画まで:人間のコミュニケーションの万華鏡』と和訳されたその1冊は、人類のコミュニケーションの歴史を、大人の絵本にまとめたもの。日本では岩波叢書で『コミュニケーションの歴史』と題して出版しているけれど、図版が小さく口絵扱いにしており、岩波文庫は原題で和訳出版しているものの、やはり図版が冷遇されている。三省堂は「コミュニケーション」の表題で、本文を大幅に削除して子供の絵本に改変しています。

太田がロンドンの古書店街で何人もの店主に名刺を渡して、何年もかけて入手したその原書は、アイソタイプ研究所の初期から、アシスタントとして尽力し、ノイラート夫人としても多大な貢献をしたマリー・ノイラートのアイソタイプ展の展示パネル説明文を、ホグベンが執筆協力したことが動機となって、ノイラートの死後4年後に出版されました。全288頁のハードカバー。フルカラーが20頁、モノクロ211点の図版をマリー・ノイラートが選んでいます。その最後の頁でホグベンは、アイソタイプというピクトグラム(絵ことば)が時代を超えて普及すれば、未来の人たちは、私たちの時代を黄金時代のはじまりとして思い出すかもしれない、と書いています。

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アイソタイプ「年収の比較」

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1964年 東京オリンピック ピクトグラム「体操」/ デザイン 山下芳郎

欧米で開発された近代教育は、日本では読み、書き、そろばんと言われるように、世界を抽象的概念に翻訳する能力を身につけさせるものでした。その意義はあったものの、抽象的思考を優先させすぎて、認識と実践のギャップ(不調和)が生まれました。抽象性と身体性のギャップを埋めるのが、「ピクトグラムをはじめとする視覚言語のサイン」です。感性を抽象化しないで、見たまま理解できる特徴を持っています。江戸時代の石柱に指差した手の形を削り出して道しるべとした例なども、ピクトグラムの好例と言えるでしょう。他にも筆や傘の形を形象化したものを店頭に飾った「江戸の看板」も、文盲の人口が多かった時代の優れた「サインデザイン」と言えます。

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江戸の看板 / キセル屋

「ピクトグラム(絵文字)」とは
意味するものの形状を利用してその意味を分からせてくれるサイン。言語や宗教の違い、教育、年齢、経験の違いを超えて、誰に対しても等しく、同じ意味を伝えることができます。それは人間の誕生以来の生き方のリアリティーを、コミュニケーションメディアの絵柄として取り入れているからです。「指じるし」と「矢印」も同様で、時代と国を超えて、汎地球的にあらゆる分野で多用されている国際語です。

ピクトグラム(絵文字)によって、認識と実践の関係が整えやすくなる理由は、生活する上での共通の経験や感性などをデザインに活用できるからです。けれども今から50年ほど前、当時の国鉄・東京駅の案内誘導サインを頼まれてデザインした時、トイレのピクトグラムの男性の両足を、少し開いたデザインにしたら担当者から拒絶された記憶があります。ところがそのすぐ後に開通した東海道新幹線の車内のトイレ表示の男性は、足を広げており、現在、全国で使用される標準案内用図記号のデザインも足を広げている。生活する全ての人に共通なイメージは、瞬時に意味を理解できる有効な視覚言語なのです。

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非常口サイン

1972・73年の大阪・熊本のビル火災で、死者250名が出た時、10W蛍光灯1本内蔵の非常口と書いた文字サインが煙で看取れなかったのではないかと国会でも紛糾し、40W2本に巨大化されました。太田は心配になり消防庁に電話で結果を尋ねたところ、ショッピングモールでは危険地帯のイメージだとか、病院の入院患者からは安眠妨害だと、全国で抗議が勃発とのことでピクトグラム化する方針に切り代わりました。デザインのアイデア3337点が、全国公募で集められました。各種視認効果測定で1点に絞られ、太田が中心になって非常口ピクトグラムサイン一式をデザインしました。巨大文字になったばかりの全国の非常口サインは、1982年に新たに国家規格となったピクトグラムの非常口サインに取り替えられました。

非常口ピクトグラムの国際規格を審議していたISOでは、数年前からソ連案を国際規格に内定していたため、遅れて提出された日本案の審議は拒絶されるほどでした。日本の委員会に頼まれて太田は、ピクトグラムデザインの日ソ両案のデザイン批評を書いて提出したところ、日本案のデザインアイデア3337点を1点に絞り込む大規模な実証実験データも有効に働いて、ソ連が自国案を取り下げて1987年、日本案が国際規格に決定したのです。

池上彰キャスターのNHKテレビ番組「メディアのめ」に太田が出演した際、非常口サインのピクトグラムデザインは、日ソ両国のデザインレベルを比較することよりも、どちらのデザインもほとんど同じと言える、その共通性が最も重要なことだ、と説明しました。その後何年にもわたって、NHKからの再放送の要請に応じていたら、NHKの再放送の記録を塗り替えましたと聞きました。外務省からは、世界65カ国の国営テレビに、この「メディアのめ」の番組を文化協力のため無償提供したいので了解してほしい、と言ってきました。

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