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嶋田繁太郎 東條の腰巾着だったのか

今回は東條内閣で海軍大臣を務めた嶋田繁太郎について解説する。


1.概要

1883年、東京府で生まれる。
東京中学を経て海軍兵学校に入学し、1904年卒業する。
1941年、東條内閣の海軍大臣に指名され就任する。
後に軍令部総長も兼任し、東條と共に批判される。
サイパン島陥落で辞任に追い込まれる。
東京裁判では被告人となり、終身刑の判決を受ける。
1976年、死去。

2.東條の腰巾着だったのか

嶋田は海軍大臣に就任して以降、彼の東條英機に対する腰巾着的な振る舞いを揶揄され「東條の男妾」とも言われていた。さて、それは本当だったのか。
率直に私の考えを言うと、嶋田は上からの圧力に弱かったのではないか。
彼は元々不戦派で、海軍大臣を打診された際には辞退をしたのだが皇族の伏見宮博恭王に勧めで受諾した。つまり、上に勧められて就任した。
その後、これも伏見宮に「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言われ不戦派から一転、開戦派に転じた。東條に対してもこのような対応であったのではないだろうか。東條より1歳年上ではあるものの時の内閣総理大臣兼陸軍大臣、嶋田は海軍大臣、やはり従うしかなかったのではないだろうか。

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