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米内光政 東京裁判では追及されなかった米内の戦争責任とは?

今回は総理大臣や海軍大臣を務めた米内光政について解説する。


1.概要

米内光政は1880年、岩手県で生まれた。1898年、海軍兵学校に入校したが当時はパッとしない人物だったという。1936年に連合艦隊司令長官に就任。1937年には海軍大臣に就任し、林内閣、近衛内閣、平沼内閣と務めた。1940年には、総理大臣に就任したが6カ月ほどで総辞職した。東條内閣総辞職後、小磯内閣で海軍大臣に就任。
1948年、病死。


2.協調派としての米内光政

協調派の米内、これは世間一般のイメージであるが実際、どのような協調派の面があったのか。
ロンドン海軍軍縮条約の賛成、大東亜戦争終戦賛成などがある。
特に終戦時は賛成派を率い終戦に持っていった。米内には人情を感じさせるこんなエピソードがある。A級戦犯として裁かれた畑俊六は親英米内閣を倒閣させた罪に問われていた。米内が東京裁判に証人として出廷したとき、畑のことについて徹底的にしらを切った。
これは倒閣は畑の責任ではなく、陸軍全体の責任と考えていたためだと考えられる。

3.戦争犯罪人としての米内光政

今までは協調派の米内光政について語ってきたがここからは戦争犯罪人としての米内光政について語っていく。それは日中戦争時である。杭州や南京に軍を派遣し、和平工作を退け、結果的にアメリカ政府の対日感情を悪化させることとなっている。東京裁判で米内を起訴できなくはなかっただろうが、しなかった理由は秘書官などが米内が戦犯にならないように奔走したことやアメリカ政府の方針転換などが挙げられる。


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