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重光葵 重光の戦争責任とはなんだったのか。

今回は戦前戦後を通して4回外務大臣を務めた重光葵について解説する。


1.概要

1887年、大分県で生まれる。1911年に外務省に入省。
上海総領事などを経て駐華公使となる。だが天長節祝賀式典で朝鮮人の爆破テロに遭い足を切断するほどの重傷を負う。
東條内閣や小磯内閣の外務大臣を務め、アジアの人種差別をなくすために奔走した。日本が降伏した時には敗戦国の全権を務め、降伏文書に調印した。戦後は東京裁判で起訴され、禁錮7年の判決を受けた。出所した後は、鳩山内閣の外務大臣兼副総理を務め、国連加盟のために奔走した。1957年、急死。

2.外務大臣時代

東條内閣、小磯内閣時代に重光は万国平等の世界を追求する大東亜会議の実現に奔走していた。この会議は日本、満州国、中華民国(汪兆銘政府)、フィリピン、タイ、ビルマ、インドなどが集まった会議となり、これは初の有色人種のみの首脳会議となった。しかしこの会議の参加者は日本の下独立した傀儡政権とも言える国ばかりであった(タイは除く)。

3.東京裁判

あれ?と思った人もいるかも知れない。なぜなら私は重光の戦争責任について何も話していないからだ。これはあくまで個人の見解だが、重光葵の戦争責任は皆無であると考えている。じゃあなぜ重光葵が東京裁判で起訴されたかというとソ連の問題である。そもそもソ連以外の国の検事は重光葵を起訴する気は毛頭なかった。しかしソ連の検事は重光の起訴を強硬に主張し、重光を起訴しなければ裁判に参加しないとも言った。仕方なく他の検事団は重光を逮捕し、起訴した。
裁判の途中も重光は無罪放免という考えが一般的であったが、判決は禁錮7年。全被告人の中では一番低い量刑ではあったが、無罪判決が当然と思われていただけに、この判決に主席検事までもが憤りを示した。この判決はソ連に配慮したとも言われている。


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