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ノケモノの地下城41【長編小説】

 ーー私のかわいい子ども。私の……。
 蔵谷美陽はゆっくりと顔を上げ、向かいに座る男を見据えた。男は、悠然とお茶をすすっていた。
 この男が取り引きの要になる。私のかわいい子どもの、今後の後ろ楯。
「美陽、君は飲まないのか」
 男の瞳は、穏やかだった。
 自分と男の分のお茶を用意した。自分のお茶は、湯飲みの高い位置で静かに湯気を立ち上らせていた。
「急ぐ話があります」
 そうか、と男は瞳で返事をし、先をうながした。
「地下城を潰して欲しいのです」
 美陽は、男の穏やかな瞳に波紋が広がるのを見逃さなかった。しかし男は一口茶をすすると、また元の静かな瞳に戻った。
 理由を問われた。
 そう、感じた。
「罪ほろぼしをしたいのです」
 ーー誰に対する?
「私の悪計でノケモノになってしまった者たちに対して」
 それから……。
「あなたに対しても」
 男は深いため息をつき、またお茶をすすった。
「美陽、君が自身のことを責め続ければ、私が君を恨み続ける理由になってしまう。忘れて欲しいとお願いしたはずだ。私が、この土地から去るとき」
 男こそが地下水脈を見つけた最初の一族。その末裔。肥後の国を束ねる菊池一族の。
 その男を、美陽は追い出した。衣川のタヌキと謀って。
「この土地の者の幸福のために、私は地下水脈信仰という宗教と現代という自由のはざまで葛藤し続けます。それがせめてもの……」
 償いとなる……。
「私には、良心の呵責に耐えかねた者の自傷行為にしか見えない。美陽、何度も言うが、あのことは忘れて欲しい。そして、今までのように地下を守る役目に集中して欲しい」
「私が忘れても、子どもたちがいつか必ず気づきます。すでに、地下でいくつもの争いが始まりました。争いは私に守れる範囲を超えました。地下の、あの城の存在が引き金になっているのです。水脈だけでも守れれば、城はなくても人は生きてゆけます」
「城は、ゆりかごなんだぞ。ただのゆりかごじゃない。それこそ人の心を豊かに生かし続けるための」
「美しい水があれば、人は何度でも立ち直れます。しおれてしまった植物も、水があれば……」
「それは、強い人間だけだ。今現在も苦しんで、断崖の端で足を震わせてなお、顔だけは上げ、歯を食いしばり正しさを守る心を保っている人間がいる。そんな人の心を壊すようなことをするのは、断る」
「目の前の者が、そんな人でもですか」
「美陽……」
 男が見た美陽の瞳には、静かな炎が揺らめいていた。
 この炎は、私が頼みを断れば、どんな手でも使いかねない危うげな意志……。
 刃の切っ先を自身の喉元に突き立てながら命乞いをする矛盾。掻切られた喉から吹き出る血は、彼女のものだけではすまないだろう。
 どうすべきか。
 何を望むか。
 彼女が願っている結末は……。
 彼女が私をこの地に呼び寄せ、城を潰せと頼む理由。崩れた城のあとに残るものは。いや、立ち上がってくるものか。
 彼女は何を、誰をノケモノにしたのか。つまはじかれた者は……。
 子、か。
 子は、どう思うか。親の意志をどう受け止めるか。やっとの思いで、崩れた城から抜け出し立ち上がった時、すでに親がいなくなっていたら……。
「私に子守りはできんよ」
 美陽を見た。瞳の炎は、柔らかで穏やかな囁きのように揺れた。
「優しく見守るだけで十分なのです。あなたが、私たちを見守ってくださったように」


 

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