見出し画像

ノケモノの地下城43【長編小説】

ただ一時の醜さに手を貸して、ゆりかごは、もうない。

衣川洋子は、自分へ敵意をむき出しにして向かってくる青年を見ていた。青年は、汚染された湖に飛び込み必死に泳いでいる。それを追うように亜紀さんも湖に飛び込んだ。
「朋広! 戻りなさい」
 ーーああ、亜紀さんの弟さんなのね。
 叫びはむなしく洞に響く。
「戻って!」
 叫ぶたびに水が口に入っている。
 ーー亜紀さん、溺れちゃう……。
 でも、足は動かせない。この足はとうに限界を迎えて、立っていることすら奇跡的なのだ。
 青年は、もう、自分の立っている離島まであと少しと迫っている。対岸に立っている幸人は呆然と立ちすくしている。衣川のあの人たちは大きな衣を取り出していて……。
 洋子が対岸に目を向けた数秒で朋広は離島に着いていた。肩で息をし、這いつくばって近づいてくる。手足の震えは、怒りか、それとも毒水に犯された痙攣か。
「あんたのせいで」
 小さな声だった。
「あんたの……」
 青年の頬をつたう水滴がきらりと人工的な輝きを見せた。と、同時に怒声が響いた。
「亜紀っ」
 蔵谷博人だった。
 ーーあの子にもかわいそうな役目を負わせてしまった。幸人の兄なんて……。
 博人の身体は泥だらけであった。
「兄貴……」
 幸人はすがりつくような声で博人を呼んだ。
「情けない声をだすな。手伝え」
 博人の手には、私が渡したもう一つの衣があって……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?