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ノケモノの地下城42【長編小説】

  人工的な方法では子宝には恵まれなかった。でも、洋子さんとの約束がある。
 ーーどうしたものかしらね。
 そもそも一人息子の博人を産んで以来、赤ちゃんとのご縁はなかった。きっとそういう体質だったのだろう。ならばなおさらどうしようもないが、できませんでしたで済む話でもない。
 腹を、さすった。
 ーー罰が当たったのね……。
 私のしたことは、純粋に赤ちゃんが欲しくて欲しくてどうしようもない人間には、恨めしいくらいの傲慢だろう。
 産まれてくることを望まれてはいるが、赤ちゃんの幸せなど願ってはおらず、利己的な利用の為であるのだ。
 ーー赤ん坊にも見放された……。
 あの人の嘲りが聞こえる。
 あの人は……。
 顔をあげると、罪人が縁側の前に立っていた。四畳半の茶室は母屋からはなれた山側にある。茶室の縁側は南向きで、母屋とその眼下に広がる町が見渡せる。そこに、ぽつねんと陽の光りを背にして罪人が立っていたのである。逆光で顔が暗い。その暗い顔の口がぼそぼそと動いた。
「何だ、またノケモノにしたのか」
「何……」
 いや、分かっていた。
「……そう。私が」
 腹は、さすられてなどいなかった。腹の皮膚は、つねられて、アザになった黒い痕が残っているだけだった。
 ご縁はあった。私が断ち切った。もう、自分でもどうしようもない矛盾した感情が、くるくると入れ替わり立ち替わり顔を出す。でもこんな状態が私には似合いの罰だとも思っていた。
「散歩でも行こうか」
 罪人はそう言って、私を連れ出した。久しぶりに出る自宅敷地外は、初夏の陽気だった。田んぼの水路沿いをとぼとぼと歩く。コンクリートの水路の壁に、大きなタニシが濃い桃色の卵を産みつけている。近所の子どもたちがその卵を棒切れで一生懸命こそぎおとしていた。
 ーージャンボタニシは「ガイライシュ」なんだよ。
 ーー悪いタニシだからよく増えるんだって。
 ーーでも卵は、水に流したら死ぬよ。だから……。
 子どもたちを通りすぎて、小さくなっていく声は、そこで途切れた。水路の流れは、私と罪人の歩いている方向と同じだった。水の流れで、浮き沈みを繰り返す桃色の卵が見えた。数歩前を歩いていた罪人がすっとしゃがみこみ、その卵を片手で水から掬い上げた。多数のシワと傷が深く刻み込まれたその手は無骨で分厚く、しかし柔らかな厚みのようにも見える不思議な手だった。罪人はその手を私の前に差し出すと……。
「小さな命を預かることになった」
 指の間からは水路の水が一滴ずつこぼれ落ちている。
 ぽたり。
「地下城に預けられた子だ」
 ぽたり。
「産みの親は確認できていないが、手紙とあの地図がしのばせてあった」
 ぽたり。
「衣川洋子とお前の二人で育ててくれ。地図は、私が預かっておく」
 ボオンと低い鐘の値が鳴った。町の住民が持ち回りで鳴らす鐘だ。この音を聞いて子どもたちは家へ帰る。罪人と私も、茶室へ帰った。
 夜、茶室の縁側へ腰を掛け、月を眺めた。細い細い月だった。昼間の罪人の言葉を反芻する。罪人は帰り際、私に預けるという赤ちゃんの名前を教えた。
 ーー近々また訪ねる。預ける子の名前だが……。
「幸人」
 そう呟いて、明け方まで月を眺めた。

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